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道しるべ  57 屋敷を後に



 それから、にわか特訓が始まった。
 長年の癖はなかなか抜けないもので、脚を擦るように小幅で進むスタイルから、パッパッと大股に歩くやり方に替えるのは、思ったより難しかった。
 だが、娘はがんばった。 だぶついたズボンにつまずきそうになりながら、何度も庭の一角を往復し、足の出し方を練習した。
 不本意ながらも、イアンは少しだけ彼女を見直した。 まったくの根性無しかと思ったが、やる気はあるらしい。
 それにしても、こんなに体に合わない服では、足手まとい以上に転びそうで危険だ。 短く息をつくと、イアンは懐から紐を出し、娘に投げた。
「これで足首と胴回りをくくれ。 そのままだと、飛び跳ねたら脱げてしまうぞ」
 とたんに娘は首筋まで赤くなった。


 彼女が小さいナイフを取り出して、紐の長さを確かめつつ切っているところを眺めながら、イアンはトムに言った。
「もっと大きさの合う服を、早めに見つけてやらないとな」
「いや、不恰好でも今のままのほうがいいよ。 体の線が出ないから」
 トムはきっぱりと言い切り、イアンと目を合わせた。
「紐をやったのは、いい考えだった」
 それから、余計な一言を付け加えた。
「おまえ、根は親切だからな」
「たまたま持ってただけだ」
「たまたま? フェイスの服の紐飾りだろう? おまえが旅に出るとき、道で泣きながら渡しているのを見たぞ」
「あの小間使いが勝手に胸元に押し込んだんだ。 おれはあの子とは寝てない」
「おまえに持っててほしかったんだよ。 ついていきたいけど、せめて代わりにって」
 トムは珍しくよくしゃべった。
 反対にイアンのほうは、ずっと彼に片思いして、シャツを縫って贈ってくれたりした美人の小間使いを思い出し、憂鬱になった。
 彼女の気持ちに応えることはできないと、それとなく伝えたのだ。 それでもフェイスはあきらめず、彼にいろいろとプレゼントしてきた。
 さっき渡した紺色の飾り紐もそうだ。 彼女の期待がずっしりと重かったので、イアンは娘に渡してしまって、荷が軽くなっていた。 少し気は咎めたが。


 娘は、切った紐で丁寧にズボンを縛った後、立ち上がって足さばきを確かめていた。 それから、できるだけ勇ましく二人の方へ歩いてきた。
「どうかしら?」
「それでいい。 少し乱暴なぐらいに手足を動かすのを忘れないで」
 トムの助言に、娘は真剣にうなずいた。
「腹がすいたぞ。 もう出よう」
 イアンがせきたてると、トムは、掘った土が黒々としている粗末な墓を振り返り、胸に十字を切った。
「そうだな、じゃ、そこの……」
 声が止まった。 そのときようやく、まだ娘の名前を聞いていないのを思い出したのだ。
「君、名前は?」
 娘は、すりきれた帽子に長い髪を押し込んで、目深に被った。 やわらかい声が、囁くように答えた。
「ジュヌヴィエーヴ」


 発音しにくい名前をつけたもんだ。
 イアンはトムが口を開く前に、さっさと決めた。
「そうか、じゃ、近い発音の男名前で、ジョニーと呼ぶ。 いいな?」













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