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道しるべ  54 無気力な娘



 娘は、ジャン・ミシェルを運んできた若者二人には、目もくれなかった。 警戒心がないのか、それとも兄の死があまりの衝撃で、周りが見えなくなったのか。
 終いに、イアンのほうが落ち着きがなくなってきて、娘にフランス語で話しかけた。
「君は、兄さんが辻強盗をしていたのを知っていたのか?」
 娘は言葉では答えなかった。 だが、間もなく頭がゆっくりと前後に振れた。
 イアンの声は厳しくなった。
「殺されても仕方がないとわかってるようだな」
 姿勢を動かさないまま、娘は細い声で尋ねた。
「あなた達が殺したの?」
「ちがう」
 イアンは唸るように答えた。
「だが、行方は追っていた。 刺したのは、今日被害に遭いそうになった連中だ」
 娘はそのまま体を丸め、のろのろと兄の力を失った腕の中に横たわった。 まるで兄と共に殺されたような姿だった。
 それまで黙っていたトムが、我慢できなくなってイアンに鋭く囁いた。
「彼女はなんて言ってた?」
「俺たちが殺したのかと。 違うと答えたら、この有様だ」
「絶望してるんだよ」
 トムは気が気でない様子で、灰色の布の中にわずかに見えている白い頬を見下ろした。
「たった一つの頼りだった兄貴が死んで、気力がなくなったんだ」
「じゃ、死ねばいい!」
 突然イアンが爆発した。 少年の頃から、彼は自分の努力で生き抜いてきた。 どうしようもなく心細い夜、飢えが重なって肋骨が肌から浮き出る昼を、幾度となく経験した。
 それを何だ、この女は。 せっぱつまって悪事をするまでに落ちぶれた兄を頼るばかりで、その支えがなくなったら、あっさり気力を失っただと?
「おまえが言わなくたって、本人はその気だよ」
 トムは固い声で呟き、娘に屈みこむと、そっと荒い布目の肩掛けを掻き分けて、顔を改めた。
 行きがかり上、イアンもしぶしぶながら彼女の顔に目をやった。
 それは、可愛い顔立ちだった。 子供っぽくふっくらしていて唇は小さく、鼻も小ぶりで形がよかった。 目を閉じているから瞳の色はわからなかったが、茶色の睫毛が扇のように形よく広がり、頬の上に影を落としていた。
 布をめくられても、娘は身動き一つしなかった。 あまりにも無垢で、信じられないほど頼りない。 トムがもっとも救いたくなる存在だ。
 厄介なことにならないうちに、早くこの大きな屋敷を去りたい。 イアンは胸がちりちりしてきた。
「トム?」
 トムはまだ娘を覗きこんでいた。 心配げな雲が額にかかっている。
「連れていこう」
「何だと!」
 一足飛びに、最もおそれていた事態になった。 狼狽のあまり、イアンは落ち葉の上で飛び跳ねそうになった。













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