表紙目次文頭前頁次頁
表紙

道しるべ  36 訣別の故郷



 体に合った大型の馬に乗って、トムが追いついてきた。 遠くまで行くので特別に馬を貸してもらったローアンが、調達した馬を二頭引いて、その後に続いた。
 三人の若者は、丘のてっぺん近くまで上り、眼下に広がる静かな景色を眺めた。 緩やかに伸びる平原の向こうには、巨大な鑿〔のみ〕で荒削りしたような岩場が散在している。 ところどころにある小さな雑木林が、風の吹くたびに黄葉を光の粒のように振りまいていた。
 いつもは自然など気がつかない三人だが、その日は珍しく、少し時間を取って周囲を目に留めていた。 間もなく彼らは五百人以上の隊を組んで、遠い異国への旅に出る。 いつ戻れるか、そもそも生きて帰れるかどうかわからない戦場への旅だ。 当たり前の景色が、心に染みた。
「母上に会いに行ったらどうだ?」
 トムの声が、しばしの沈黙を破った。
「どこにかくまわれているか、わかったんだろう?」
 イアンは、すぐ横にあった背の高い草をむしり、茎を口にくわえた。
「表向きは知らされてないからな。 行っても番人に追い払われるだろ」
「じゃ、女の子のところへお別れに行ったら?」
 ローアンが変声期のガサガサした声で勧めた。
「イアンさんはモテるから、一人や二人じゃないでしょうけどね」
 イアンは苦笑し、傍に来たローアンを肘でこづいた。
「本心は、一桁ちがうとか言いたいんだろう?」
 声は明るかったが、内心は違った。 女遊びは彼の趣味ではない。 そう見せかけていただけで、実際は堅かった。
 もちろん、女を知らないわけではなかった。 イアンを初めて誘惑したのは、彼が十五の夏に館を訪れていた子爵夫人だった。 イアンは六日間彼女の相手を務め、秘密の贈り物をいろいろ貰ったが、最後まで冷めていた。
 神父の戒める『肉欲の罪』とは一時の快楽にすぎないと、イアンは十代の半ばで思い知った。 かわいい村娘に誘われ、心が動いたこともあったが、親友が坊さん崩れのトムで、純真な乙女の未来を壊してはいけないと真面目にさとすので、手を出す意欲がなくなった。
 だから、相手は本当に数えるほどだった。 寂しい未亡人や陽気な浮気娘たち。 どちらも意外に口が固く、イアンとの一夜を大事にしてくれて、悪い噂にはつながらなかった。












表紙 目次 前頁 次頁
背景:Kigen
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送