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道しるべ  18 印象的な顔


 大広間からのざわめきは聞こえなくなっていた。 庭のほうも静まり返っている。 上空はまだ漆黒だが、東の地平線はわずかに白みかけていた。
 あと一時間もすれば夜が明ける。 イアンは、未だに定かではない少年の顔のあたりを眺めながら、小声で訊いた。
「これからどうするつもりだ?」
 少年は慌しく口に運んでいた手を止め、ゆっくり石壁に寄りかかった。
「よくわからない。 力は強いから、下働きや荷物運びでもして、ここにいたい」
 確かに体力はありそうだ。 だが、修道院からの脱走者では、堂々と住み込みで働くことはできないから、本人の言う通り臨時雇いがせいぜい。 鍛冶屋の弟子とか商店の見習いのような、まともな仕事にはつけないだろう。
「セント・ジェームズは、そんなに辛かったのか?」
 イアンの問いに、答えはしばらく返ってこなかった。
 やがてトム少年は咳払いし、ぽつりと呟いた。
「働くのが嫌だったんじゃない。 誓いをしたくなかったんだ。
 修道院で育ててもらったのはありがたいが、物心ついたときから灰色の塀の中で、他の世界は何も知らない。 そんなの、つまらないよ」
「出たとたんに飢えてるんじゃ、どうしようもないな」
 イアンは容赦なく言うと、トムの手から酒壷を取り返した。
「数が足りなくなると叱られるんだ」
「ああ、わかる。 俺たちもそうだった」
「おい、誰と話してるんだ!」


 不意に背後から投げかけられた大声に、イアンは身構えた。 トムもぎょっとなって、柱の陰に引っこもうとした。
 声に続き、片手にたいまつを持った大柄な男が近づいてきた。 それが誰だか気づいたイアンは、ほっとして肩の力を緩めた。
「クリントさん」
「少しは寝ておかないと、今日これからの訓練がきついぞ」
 倉庫の傍まで来て、クリントは鋭く大柱の方を見やった。
「何こそこそしてるんだ。 出てこい」
 声は大きくないが、容赦ない響きがあった。 命令し慣れたその口調に圧倒されたのか、柱の裏側に立っていたトムが、のろのろと姿を現した。


 その瞬間、イアンの目は釘付けになった。
 たいまつに照らされたのは、黒みがかった濃い茶色の髪、まっすぐな眉毛の下に輝く灰色の瞳、シャープな頬の輪郭に大き目の口。 そして、がっしりと力強い顎。
 まるで空想が現実になったように、トム・デイキン少年は、イアンがなりたいと夢見たとおりの顔立ちをしていた。
──、くそ、なんて男らしい顔してやがるんだ、こいつ──
 生まれて初めて、イアンは心から他人をうらやましいと思った。
 クリントは、たいまつをイアンに渡して腕を胸で組み、しげしげとトム少年を眺め回した。
「知らない顔だな。 どこから来た?」
 一目見たときの驚きが覚めず、まだトムの顔を穴のあくほど見ていたイアンだったが、そのとき突然ひらめいた。
 フランスとの長い戦争は、今のところ小康状態だ。 しかし、火種は残っていて、いつまた発火するかわからないらしい。 幸い、この城の財政状態は豊かだから。
「ねえクリントさん、こいつはトム・デイキンといって、俺の幼なじみなんですよ。 奉公に出てたんだけど、店が潰れて行き場がなくなったんです。 ためしに兵隊に使ってやってくれませんか? 体はいいし骨惜しみしない奴ですよ」
 口実は適当だが、完全な嘘というわけではなかった。 修道院だって奉公の一種だ。
 クリントは姿勢を崩さず、首だけ回して後ろのイアンに目をくれた。
「それにしちゃ、気弱そうだな」
「帰り道にいろんな目に遭ったもんで。 用心深くなってるんです」














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