表紙目次文頭前頁次頁
表紙

緑の騎士 -47-
 アガーテは、真面目な表情になってマリアンネの袖先を軽く引っ張った。
「駄目ですよ、ヤーコブ様なんて言っちゃ。 兄上とおっしゃい。 本当にそうなんだし」
「ああ、何もかもうんざりだわ」
 額に手を置くと、マリアンネは吐き出すように呟いた。


 部屋に戻っても、もう刺繍などする気になれなかった。 一人にしてほしかったが、今はそれが許される身分ではない。 せめて窓の傍へ行って鎧戸を開き、分厚いガラスの向こうに歪んで見える礼拝堂の鐘楼を眺めて物思いにふけるしかなかった。


 初恋の記憶は、暗い霧に包まれていた。
 もう何年も思い出したことがない。 夢の中でさえ、一度も現れたことはなかった。
 ただ、彼の瞳の濡れたような輝きは、いつも胸にあった。 唇の無垢〔むく〕な柔らかさと、産毛〔うぶげ〕の生えたしなやかな腕の感触も。
 すべては消えた。 永遠に失われてしまった。 軽やかな恋心ぐらいでは乗り越えられない障壁が、二人をわずか一日で隔てたのだ。 彼が別人のようになって別れを切り出したあの午後を、今日までマリアンネは封じ込め、決して思い返そうとはしなかった。
 その記憶が、不意に封印を解いて、目の前の静かな景色の上に広がった。
『父が、事情が変わったから許さないと言った』
 岸辺の青い草にしゃがみこみ、小川の水を優雅な長い指で意味もなくすくいながら、彼は息を飲み込むようにしてしゃべった。
『持参金が乏しいし、血筋にも問題があると』
 どちらも、マリアンネ本人にはどうしようもないことだった。 額に冷たいしびれが広がり、胸が締め木にかけられたように痛くなった。
『持参金はヤーコブ様が出してくださるはずよ。 そういう約束なの』
 辛うじて口から押し出した言葉には、力がなかった。 もう何を言っても駄目なのが、うすうすわかっていたからだ。 父親に禁じられた時点で、彼の心は離れてしまったのだ。 その証拠に、彼は不意に立ち上がり、一人で木立につないである馬めがけて歩いていった。 いつもは手を延べてマリアンネを起き上がらせてから、並んで行くのに。
 馬の首をゆっくり撫で、彼は手綱をほどいた。 低い声が、きっぱりと告げた。
『僕が馬鹿だった。 簡単に考えすぎていたんだ。 幸い、ここで君と会っていたことは誰も知らない。 すべて、なかったことにしよう。 君をこれ以上傷つけたくない』


 あのとき、黙って去らせればよかったのだろうか。
 マリアンネにはできなかった。 表面はさらりとした付き合いでも、彼女には彼はほとんど命と同じ存在だった。 彼がいなければ笑えない。 幸せにもなれない。 耐えられなかった。
『わかったわ。 でも、傷つけなかったなんて思わないで。 生まれの秘密も財産がないことも、あなたは初めから知っていた。 わかっていて愛を誓った。
 もう誰の誓いも信じないわ。 私の心の中では、あなたは永遠に裏切り者よ』


 自分の荒れた叫びが、壊れた鐘のようにわんわんと頭を巡った。 特に思い出したくなかったのは、これだった。 彼を罵った 切れ味の悪いナイフのような別れの言葉。
 彼は一度も振り返らず馬に飛び乗り、無言で去って行った。 その日から、二人の間には黒雲のように気まずさが起ちこめ、できるだけ顔を合わすまいとした。 やむをえず、ごくたまに口をきくときには、お互い喧嘩腰になってしまうのだった。









表紙 目次前頁次頁
背景:Star Dust
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送