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表紙

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 ケルンやデュッセルドルフのような大きな町を胃袋にたとえるとすれば、ライン河は食道だ。 うまそうな荷物や人を抱えて、絶え間なく船が移動する。
 だが、ベーベルンのような小さな田舎町にも、人は来た。 河に沿って南北に動くのではなく、ラバや馬、徒歩などで、東西に流れていった。
 そのわけは、ベーベルンの特別な位置にある。 ヨーロッパ全土にあまねく知られた二つの大聖堂、ケルンとアーヘンの、ほぼ中間にできた町だったのだ。


 そのベーベルン郊外、小高い丘の上に立つリーツ城の裏庭で、一人の娘が水桶を運んでいた。
 ほっそりときゃしゃに見えるが、両手に大きな桶を下げ、確かな足取りで進んでいた。 持ち直すような素振りも見せない。
 そんな彼女の後ろから、若い男達の声が近付いてきた。
「この鞭を見ろよ。 ヒンシェの森で邪魔な枝を叩き落とそうとしたら、二つに割れちまった」
「また新しくナッソウの爺さんに作らせればいいじゃないか」
「勘弁してくれよ。 あの爺、最近強欲になってな、鞭一本で2ペーニヒもふんだくるんだぞ」
「老い先が不安で、貯めこんでるんだろうな」
 笑いながら、さっと払ったマントが、水の重さに歯を噛みしめて歩いていた娘の顔に当たった。 微妙なバランスが崩れ、よろめいた足が水桶に引っかかった。
 ザッという音と共に、左の桶が手を離れて転がり、中身を埃っぽい土の上にぶちまけた。 右の桶は辛うじて立て直したが、不意に片手が軽くなったせいで体がねじれ、娘は地面に倒れこんでしまった。

 男達は、横に三人並んで歩いていた。 灰色のマントで娘を倒した男は、意に介さずに通り過ぎようとしたが、真ん中にいた若者が気付いて、足を止めた。
「大丈夫か?」
 彼は、肘を取って娘を助け起こした。 娘は彼の顔を見ず、横たわる桶を拾いながら、口の中で答えた。
「大丈夫です」
 ぶすっとした表情だ。 特別というわけではなく、だいたいいつも仏頂面に見える。 眉は太く、肌の色艶が悪く、どこの芋畑で拾ってきたのかという顔付きをしていた。

 真ん中の青年シギスムントが立ち止まったため、マントの男ヨアヒムも仕方なく二歩引き返した。 外側にいたディルクは、振り返ったが戻ろうとはしなかった。、
「そんなのに構ってないで、早く行こう。 マリア姫のお迎えに行かなきゃならないんだから」
 ヨアヒムにそう言われて、中腰から体を起こすと、シギスムントはむっとした様子で答えた。
「おまえが倒したんだぞ。 わからなかったのか」
 ヨアヒムは驚いた。 本当に自覚がなかったらしい。
「そうだったか? 悪かったな、マリアンネ」
 マリアンネは、聞こえなかった顔で空の水桶を持ち、また井戸へ戻っていった。


 後ろ姿を見送って、ヨアヒムは肩をすくめた。
「可愛げのない女だ。 もう二十歳過ぎてるんだろう? なあ、ディルク?」
「知らん」
 少し前方から、無関心な声が返ってきた。
 ヨアヒムは、肩でシギスムントの背中を小突いた。
「あんな不細工なヤツに優しくすることないぜ。 格好つけるなよ」
「ブスでも女だ」
 シギスムントは負けずに応じた。
「弱い者には気を配ってやるべきだ。 マントをぱたぱたさせるのは、周りを見てからにしろ」
「おーお、ご立派な騎士様だねぇ。 それならいっそ、夜の相手をしてやっちゃどうだい? 人助けだと思って。 あのご面相じゃ、きっとまだ処女のままだぜ」
「おまえこそ彼女に頼め」
 だんだん本気で腹が立ってきて、シギスムントは凄んだ。
「顔のことばかり言うが、よく見ろ。 しなやかで丈夫そうな、いい体つきをしてるじゃないか。 たしか、ヤーコブ様からの持参金もついてるそうだぞ。 愛人にでもして、後ろ盾になってやれ。 俺にはダニエラがいるから駄目だが」
 ヨアヒムは、両腕を高く上げ、わざとらしく目をぐるっと回して見せた。
「百グルデン貰ったってお断りだ。 なあ、ディルク?」
 いちいち相槌を求められて、ディルクは眉をしかめた。
「そんなこと、どうだっていい。 急ぐんじゃなかったのか?」
「おう、そうだった」
 三人の若者は、腰の剣をガチャつかせながら、馬屋を目指した。



 ほんの戯れで語り合ったことが、間もなく現実になるとは想像もせずに。






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