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表紙

緑の騎士 -16-
 そっと切り取った髪を、マリアンネはナイフと共に布で巻いた。 お互いに名乗らず別れていく者同士、一夜の思い出の形見だった。
「ありがとう。 素敵な夜だったわ」
 それはマリアンネの本心だった。 結婚を親や領主が決めてしまうこの時代、身分ある娘が初めての相手を好みで選ぶのはほぼ不可能だ。 だが、緑の騎士に襲われる芝居をしているとき、マリアンネは悟っていた。 彼に触れ、彼に包まれるのがどれほど気持ちいいかを。
 男は、答えの代わりに首を伸ばして、もう一度マリアンネに口づけした。 熱く、少しざらっとした肌触りだった。
 うっとりするような心地よさに、マリアンネは思わず彼にしがみついた。 唇が、半ば開きかけた。
――教えて。 あなたは誰?――
 だが、声にはできなかった。


 二人は寄り添い、男のマントを上にかけて眠りに落ちた。 そのまま、マリアンネは朝まで目覚めなかった。
 低く小さい窓から差し込む朝日が、ゆっくり動いて顔の上に来た。 眩しさに、マリアンネの眼が細く開いた。
 横には、誰もいなかった。 静かにたたずんでいた大きな馬の姿もない。 マリアンネは目をこすり、やおら身を起こした。 朝の無情な光の中では、すべてが現実離れした夢だったように思えた。
 しかし、体の上には、ボタンの飛んだ服が誰かの手でかけてあった。 そして、枕元の布を開くと、ナイフの刃の上に、茶色の巻き毛が載っていた。
 上品な濃い茶色……。 どっと昨夜の思い出が生々しく蘇ってきた。 首筋や胸元に置かれた唇の暖かさもそのままに。
 あの人にまた逢いたい!
 怒涛のような願いが、一気にこみあげた。


 自分で自分をどうにもできなかった。 昨夜は諦めるつもりだったのに、新しい日は情熱をかえって燃えあがらせた。
 もう神の花嫁にはなれない。 危険な日常を送っている若い男に、身も心も奪われてしまった。 しかしその相手が、よりによって緑の騎士とは……。
 しょんぼりと、マリアンネは立ち上がった。 立派な馬と、磨いた長靴を持つ若者。 その服装からして、彼の身分は本物の騎士だった。 だからこそ、正体を明かせるはずはないのだ。 この世で最も再会しにくい男に、マリアンネは恋をしたわけだ。



 破れた服をどうにか着終わり、マントの前を止めて肩を隠した。 それから箱に近付こうとしたとき、マリアンネの足が釘で打たれたように止まった。
 箱の前の土間に、短剣で刻んだらしい字が書かれていた。

『家へお帰り』

 角張ったその字を、マリアンネはしばらく黙って見つめた。 帰っておとなしく結婚しろ――緑の騎士は、そう書き残していったのだ。
 常識で考えれば、まっとうな判断だった。 でもマリアンネの心には、ぽっかり穴が開いた。
――他に言葉はなかったの? 昨夜は幸せだったとか、お世辞でもいいから一言、書いてくれたら――
 なんでこんなに辛いんだろう。 マリアンネは泣くまいとして、唇を噛みしめた。
 そのとき、あることが頭にひらめいた。
 カウニッツ……追っ手たちがぼやいていた町の名だ。 カウニッツへ逃げたとすれば、、国境を越えて隣国へ入ったことになる。、緑の騎士は、ギュンツブルクの住人なのだ。
 ギュンツブルク!
 マリアンネは、布に巻いた短剣を胸に抱きしめた。 皮肉な思いが胸にこみあげた。
――きっと緑の騎士は、ギュンツブルク伯爵の部下なんだ。 私が伯爵の新しい奥方として現れたら、彼はどう思うだろう――
 今朝の日光で、彼はマリアンネの素顔を見ているはずだ。 動揺するだろうか。 それとも、鉄仮面のように無反応で通すか。
 そうだ、『緑の騎士』が誰か探り出そう! マリアンネは突然、心を決めた。 彼を自分のものにしたいんじゃない。 したくても、たぶん無理だし。
 マリアンネはただ、彼と秘密を共有したかった。 正体を知ることで、少しでも彼の人生に影響力を持ちたかった。
 それでも、苦しさは胸を締めつけた。 彼を探しにギュンツブルクへ行く方法が、他の男との結婚だとは。 マリアンネは暗い目まいを覚えた。






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