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表紙

緑の騎士 -109-
 ヤーコブは動かなかった。
 じっとしていれば、後ろに姿を現した人影が、彼に気付かれたことを悟らないだろうと思った。
 ヤーコブの居室は広く、奥行きがある。 そのせいで、明かりは隅々まで届かず、影の輪郭はわかっても、人物の特定はできなかった。
 ヤーコブはゆっくり息を吸い込み、背後から見えないように片手を懐に入れて、短剣の束〔つか〕を握った。 相手が襲いかかってきたら、間髪を入れず投げる心づもりだった。
 だが、緞帳の裏から出てきた影は、両足を開いてすっくと立ち、聞き覚えのある声で呼びかけた。
「ヤーコブ・フォン・アスペルマイヤー殿、お疲れでしょうが、お手合わせを願いましょうか」


 ヤーコブは、豹のように跳ね上がって身構えた。 真正面から対峙〔たいじ〕した二人は、火を吹くような視線で互いを見つめあった。
 ディルクは、もう二歩進み、油断なくヤーコブを見据えながら、鞘に収まったままの長剣を左手で握りしめた。
「貴方が一人になるのを待っていました。 でも、暗殺者になるつもりはない。 そこの剣を取ってください」
 暗い笑みを見せて、ヤーコブは横に動いた。
「相変わらず融通のきかない男だな。 背中から一突きしなかったことを後悔させてやるぞ」
「後悔するのはあなただ」
 ディルクは平静だったが、目だけがめらめらと燃えていた。
「立派な領地と、使い切れないほどの財産がある身なのに、なぜそれ以上を望むのです?」
「わからないのか。 権力さ。 わたしは世界をひれ伏させたい。 手に入るかぎりのものを支配したいんだ」
「すばらしいですね」
 ディルクはあざ笑った。
「脅し、騙して手に入れた領民は、決してあなたに心から従わない。 征服したその日から見張りが必要になります。
 その見張りも、いつあなたを裏切るかわからない。 見張りに見張りをつけるとなると……」
「力で押しつぶせばいいのだ」
 ヤーコブは傲慢に遮った。
「逆らう気になれないほど徹底的に打ちひしいでやれば」
「暴君には信頼できる同志はいません。 おべっか使いは寄ってくるでしょうが。 すべての人間が敵に見え、いつも暗殺を恐れて暮らすことになります」
「知ったようなことを!」
 そう叫ぶやいなや、ヤーコブはテーブルに置いてあった剣を抜いて切りかかった。
 切り結ぶ両刃の長剣が、銀の火花を散らした。 ヤーコブとディルクは、どちらもすらっとした長身だが、充分に鍛えて腕力が強かった。
 初め、勝負は互角だった。 だが、次第にディルクの静かな闘志がヤーコブの体力を上回りはじめた。
 自信に満ちたヤーコブの心に、初めて焦りが生まれた。 まさか、こいつがこんなに腕を上げているとは。
 ヤーコブは首を振り、自分を励ました。
――しっかりしろ。 わたしには壮大な計画と輝く未来がある。 こんなところで下郎に夢をくじかれるわけにはいかないんだ!――
 切り結びながら、じりじりと壁際まで追いつめられ、ヤーコブは最後の賭けに出た。 傍にかけてあったマントを、いきなりディルクに投げかけたのだ。
 不意に目の前が真っ暗になったとき、ディルクはとっさに飛びのいた。 瞬時の決断が、ぎりぎりで彼を救った。 荒々しく入れたヤーコブの突きが、ディルクの胸をかすめて小さな傷口を作った。
 マントを払いのけると同時に、ディルクは腕を限界まで伸ばし、力一杯ヤーコブの首を刃でなぎ払った。 強い突きを入れようと、彼が大きく足を踏み出し、すぐに避けられないのを見越した攻めだった。
 案の定、ディルクの腕がひらめいたとき、ヤーコブは体勢を立て直すどころか、むしろ前によろけた。 そして、まともに剣の餌食となった。
 剣は、動脈を断ち切った。 大量の血を噴き出しながら、ヤーコブは茫然と目を見張って横に倒れ、床に崩れ落ちた。










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