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表紙

リネットの海  74


 こぼれ落ちる涙をそのままに、リネットは感きわまって父を引っ張りながら叫んだ。
「お母様はね、待ってるだけの人生じゃつまらないと言ったわ。 本当はお父様と一緒に、世界中を見て回りたかったのよ。
 だからきっと、魂が宙に飛び出した今は、お父様の傍に戻っていると思うの。 いうことをきかない体からやっと自由になれた、これからはいつも一緒だって」
 マーカスは、薄い膜のかかったような目で、娘を見返した。
「そう思うかい? わたしを恨んでいるんじゃないだろうか? 事業をないがしろにして、自分だけ外で趣味に溺れていたわたしを」
 リネットはためらった。 恨むなら、探検ではなくもっと別の事情だろう。
 そのことで良心が咎めているのなら……リネットは、思い切ってほのめかしてみることにした。
「お母様が亡くなって一ヶ月もたたない内に、お父様が寂しさを他の女の人に慰めてほしいと思うなら、少しは怒るかも」
「他のって……」
 一瞬間を置いて、マーカスの口元が崩れた。 まぎれもなく苦笑いというやつだった。
「ああ、ジェニーの……シャンタル・ラディーンとの噂だね。
 彼女とは友達だよ、確かに。 親友といってもいい。 だが、仲が良くても恋愛に発展するとは限らないんだ。
 そもそも、どこでわたしが彼女と知り合ったと思う? イタリアにあるパーシーの別荘でだ。 こっそり訪れていた彼女と、裏庭でばったり遇ってしまってね。
 つまり、そういうことなんだ」
 あ…… リネットは激しく瞬きした。 認めてあげなきゃと思ってはいても、胸の奥に棘のように刺さっていた嫌な感情が、霧の晴れるように遠ざかっていった。
「じゃ、シャンタルさんは……」
「パーシーの憧れ。 あいつが独身を通しているのは、パリのオペラ座で見たディーバ(=女神)に身も心も捧げてしまったからさ」
「……そうだったの」
 ぼんやりした気持ちのまま、リネットは再び父の腕に顔を埋めた。 ほっとしたようで、当てが外れたような、微妙に揺れ動く気分だった。


 それでも、安心して気持ちにゆとりが出てきた。 父に薄いワインを渡して元気付けた後、リネットはダニエルの部屋に行き、ドアをノックした。
「どうぞ!」
 相変わらず活きがいい。 ドアから顔だけ中に入れて、リネットは窓際にいたダニエルに尋ねた。
「シャンタルさんはまだここにお泊り?」
 窓枠に腰かけて、ダニエルはうなずいた。
「うん、この村にはろくな宿屋がないもんでね。 ここに居座ろうって決めたんだ。 医者は迷惑そうだけど」
「どの部屋? 行って慰めたいんだけど」
 ダニエルの表情が真面目になった。
「ありがと。 でも、今は止めておきな」




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