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リネットの海  71


 やがて二人は連れ立って、医院の建物に入り、マーカスが寝かされている部屋の前に立った。
 ロルフは緊張していた。 つないだ手が汗ばんでいるので、リネットにも珍しく彼があがっているのがわかった。
 ぎゅっと手を握り返して、リネットは彼に囁いた。
「お父様があなたを嫌うとは思えないわ」
 ドアをまっすぐ見つめたまま、ロルフは答えた。
「たいていの父親は、娘の恋人が嫌いなんだ」
「じゃ、私がまず入って、お父様の機嫌を確かめる」
 リネットはそっとドアをノックして、父の返事を待った。
 すぐに答えが来た。
「どうぞ」

 ベッドの横にはベテランのナースがいて、体温計の目盛りを調べているところだった。 平熱だったらしく、満足そうに立ち上がると、リネットに笑顔でうなずいてみせて、部屋を出ていった。
 マーカスは枕を背もたれに当てて、ゆったりとベッドに座っていた。 昨夜とは比較にならないほど顔色がいい。 リネットは心からホッとして、夢中で父に抱きついた。
「お父様!」
 抱き返す腕は、随分細くなっていたが、それでも懐かしい父の手触りだった。
「リネット……リン! 心配させたね」
 抱擁を解くと、チョンと頬を突っつかれた。
「でも、いくら父さんが心配でも、一人で家出するのはよくないよ」
「ええ、無事にここまでたどり着けたのは、本当に運がよかったの。 いろんな人に助けられて……特に、ロルフに」
 そう言って振り向いた視線の先に、ドアから静かに入ってきた青年がいた。
 マーカスは、淡い微笑と共に腕を伸ばして、ロルフと固く握手を交わした。
「ジェニーから話を聞いたよ。 娘とわたしの命の恩人だ。 ありがとう」
「いいえ」
 面と向かって褒められるのが苦手な英国青年らしく、ロルフは目をしばたたかせてうつむき加減になった。
 これからいよいよ話の焦点に、というとき、廊下からせっかちそうに医師のサンタクルスが入ってきて、ロルフと言葉を交わした。
 すぐにロルフが、残念そうな中にもどこか胸を撫で下ろした様子で、リネットに通訳してくれた。
「診察するので出ていってくれと。 また後でお見舞いにこよう」


 弱っているマーカスはともかく、他の連中の朝食まで用意できないと医者が言うため、一同は揃って、村に一つしかないバルに出向いた。
 陽気にチューロとコーヒーをほおばっているダニエルは、兄がいなくなってもそれほど寂しがっているようには見えなかった。 だが、シャンタルのほうはまだ瞼が赤く、いつもの元気が薄れていた。
 ちょっと硬めの巻きパンを口に運びながら、リネットは小声で横のロルフに尋ねた。
「ジェニーって、シャンタルさんの本名?」
 コーヒーカップをかき混ぜてから、ロルフは頷いた。
「ジェニー・ラングルトンが本当の名前。 なかなかいい本名だと思うけど、芸名にはちょっと華やかさが足りないのかな」
「シャンタルさんはあなたをローリーって呼んでいたわね」
 カップをテーブルに置いて、ロルフは苦笑した。
「十五のときから知ってるからね。 君が彼女に助けを求めたとわかったときは、ひやっとしたよ」
「だからしょっちゅう姿を隠していたのね」
「うん……まあ、そうだ」
「アントンさんやダニエルさんとも知り合い?」
「いや、僕はこの三年ほど南アメリカで鉱山技師をしていたから」
「南アメリカ……それでスペイン語が上手なのか」
 ロルフが精悍できびきびしている理由がわかった。 南米は治安が悪いし、道路事情がよくない。 三年もいれば体も、そして気持ちも強くなるはずだった。

 村の住民と臨時のリネット達とで、狭いバルはごったがえしていた。 大きすぎるズボンをぶらさげ、指をくわえているかわいい男の子にリネットが見とれていると、汗を拭きながら警官が二人、子供の横をすり抜けて入って来た。
 二人はロルフに早口で報告した。 ロルフは、時々うなずきながらじっと聞いていたが、やがて立ち上がると帽子を取った。
「本物のハワードが、すべて自白したそうだ。 君とチェンバースさんからも事情を聞きたいと言っている。 どうだい? もう気分は直った?」
 リネットも席を立って、しっかりと答えた。
「ええ、もう大丈夫よ」




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