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リネットの海  66


「でもね、何度も繰り返すけど、あなたが生きていて本当によかった。 奥さんが亡くなったと聞いて、取るものも取りあえずハリナムに駆けつけたのよ。 どんなにショックを受けて落ち込んでるかと思って。
 だって、あんなに奥さんのこと愛していたんですもの」
「ああ……辛かったよ。 お互いにぴったりだったから。 昔から何時間でも話していられた。 クラリッサに、よかったわね、と言ってもらえると、発見が二倍ぐらい凄いことに思えたものだ」
 リネットの胸に引っかかっていた棘が、すっと消えていった。 父は母を誰よりも愛していたのだ。 そのことがわかりさえすれば、たとえ大女優と密かな仲だったとしても、許せる気がした。
 なぜならそれは、リネット自身が恋をしていたから。 もう旅に出たときの単純な子供ではなかったから。

 父は元気そうだ。 二人の積もる話の邪魔をしてはいけないと感じて、リネットは爪先立ちになり、廊下を引き返した。
 途中で、ふと賑やかな笑い声が耳をかすめた。 聞き覚えのある陽気な声だ。 音が伝わってくるドアの鍵穴から覗くと、ダニエルがテーブルに足を乗せて大笑いしているのが目に入って来た。
 どうやら、シャンタル・ラディーン御一行様みんなが、この医者の家に泊まりこんでしまったらしい。 急にたまらなく懐かしくなって、リネットは遠慮がちにドアをノックした。
 中の物音が止まり、アントンのズーンと響く声がした。
「どうぞ」
リネットがドアを開けると、そこには三人の男性がいた。 ダニエル、アントン、それに、リネットの知らない厳めしい顔の男だった。
 彼女の顔を見たとたん、ダニエルが相好を崩して両手を広げた。
「リンちゃーん! 元気になったね。 久しぶりっ!」
 部屋に飛び込んで、リネットはまずダニエルと、ついでアントンと抱き合った。
 アントンは、革のトランクをウンウン言って閉めようとしていたが、その手を止めてリネットを抱き寄せた後、おでこにチュッとキスして、こう言った。
「でかした、リンちゃん。 親孝行で、とても勇敢だ。 勇敢な女の子大好きだが、残念ながら、もう恋人いるらしいね」
 冗談だと思って、リネットはにこにこしながらアントンの頬にキスし返した。
「もう荷造りしているの? しばらくゆっくりしていかれるといいのにね」
「旅に出るのはアントンだけなんだよ」
 ダニエルが陽気に説明した。
「お迎えが来たんだ。 ベラトニア大公国のヨランスキー侯爵家からね。 そこに立ってるのが使いのペーテル・ランコフ武官だ」
 あっけに取られて、リネットは髭をピンと立てた見知らぬ男を見つめた。




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