表紙目次文頭前頁次頁
表紙

リネットの海  62


 弱りきったマーカスは、力を使い果たして口のきけない状態で、ベッドに仰向けになっていた。
 警官たちは、忙しくわめき合いながら、担架二つを使って、マーカスとウィルキンソンを運び出した。 ハワードの射撃の腕がよすぎて、ウィルキンソンの心臓を射抜いてしまったらしく、この主犯はほぼ即死状態だった。

 ハワードに支えられて、リネットは父の担架に付き添った。 警察の箱馬車に乗せられ、白よりも灰色に近い肌になって目を閉じている父の顔を、リネットは水で濡らしたハンカチで優しく拭った。
 ハワードは、鷹のような眼で窓から外を眺め、病院へ向かう道筋を確かめていた。
「あと五分ぐらいで着く。 呼吸がしっかりしているから大丈夫だ」
「お父様はよく頑張ったわ。 たった一人あんな穴倉で何週間も……」
 誘拐されてから、初めて涙が込み上げてきた。 リネットは乱暴に手の甲で目を拭き、動かない父に微笑みかけた。
「お父様は、もうひとつ船を見つけたの。 でも、パーシー卿が本国へ帰っていたときで、すぐに知らせられないうちに、捕らえられてしまったのよ」
「知らせたんだよ」
 ハワードは、リネットの手にそっと手のひらを重ねた。
「ロンドンに電報が来ていたそうだ。 今度調べてわかったんだが。
 その電報をウィルキンソンが読んでしまった。 なにしろ秘書だからね。 そして、ピンと来たんだろう。 急に、やり残した仕事があると言い出して、先にスペインに戻ってしまったんだ」
 不安と悔しさの中にも、ほっとした気持ちで、リネットは固くつぶった父の瞼を見つめた。 マーカス・チェンバースは道義を守る男だった。 新発見を誰よりも先に、親友に教えようとしたのだ。


 すでに真夜中近かった。 しかし、警官たちは医者を叩き起こし、ただちにマーカスを診察させた。 官憲の力は、こういうときはまことに頼もしかった。
 幸い、マーカスは食事を満足に与えられなかったために弱っているものの、大した怪我はなく、内臓にも今のところ損傷は見られないということだった。
 診察結果に耳をすませていたハワードが、可笑しそうに口をピクピクさせた。 リネットが驚いて見上げると、彼は医者の言葉を訳してくれた。
「バルでワインとトルティーリャ(=スペイン風オムレツ)でも食べりゃ、一発で快復するだろうと言ってる」




表紙 目次前頁次頁
背景:トリスの市場
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送