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リネットの海  55


 裏口は、一般客の使う通路ではないので、小さなガス灯の照明が一つあるだけだった。
 明るい廊下から出てきたリネットは、目が慣れるのに少し時間がかかった。 ほとんど暗がりにしか見えない周囲の様子をうかがっていると、ひときわ黒い影がぼんやりと近づいてきた。
 ささやき声が言った。
「さあ、こっちに」
 そして、前に立って素早く歩き出した。

 なぜ手を取ってくれないんだろうと思いながら、リネットは懸命に遅れないようについていった。 影は裏庭を突っ切り、縦格子の戸を開けて、海岸沿いの道に出た。
 賑やかで広い表通りと異なり、この海岸通りは静まりかえっていた。 通行人どころか、よく街をうろうろしている野良犬さえいない。 海は凪いでいて、自分の呼吸する音がはっきり聞こえるほどの静寂だった。
 影は、少し離れたところに停めてある屋根付き二輪馬車を手で指して、ぼそぼそした外国訛りで言った。
「あれに乗んなすって。 十五分ほどで着きますから」

 たちまちリネットは後ずさりした。 そのまま逃げればよかったのだが、思わず鋭く叫んでしまった。
「あなた、ハワードさんじゃないわ!」
 影はびっくりした様子で、ダービーハットを急いで取り、輪郭も鼻も丸っこい顔をさらした。
「何をおっしゃる。 わたしはハワードという者ですよ。 オーフュース・ハワード。 古物商をやっていて、お父上には何かとひいきにしていただいてます」
「嘘よ!」
 リネットは逆上して男の言葉を遮り、くるっと向きを変えて、ホテルめがけて走り始めた。
 馬車の御者席から男が飛び降りた。
「ばかやろう! 追え!」
 リネットは活発で、足が速かった。 だから、追ってくるのが偽のハワード一人だけなら逃げおおせたかもしれない。 しかし、御者席にいた男はまだ若いらしく、凄い勢いで追いついてきて、腕を捕らえた。
「いや、いやー、離して!」
 なおも叫ぼうとする口を、男の手が力ずくで押えた。 息ができない。 苦しい……
 めちゃくちゃにもがいていた手足から、次第に力が抜け、意識が消えていった。




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