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リネットの海  54


 夏の陽は動きが緩やかだ。 二人が顔を離して目を開いたとき、水平線の彼方はようやく薔薇色に染まりはじめたばかりだった。
 乱れかかったリネットの前髪を指で持ち上げて、ハワードは丸い額にも優しく唇をつけた。
「君の父上を一刻も早く見つけよう。 さもないと、付き合う許可を貰えないからな」
 冗談めかしてはいるが、ハワードの目は真剣だった。 リネットもお返しに爪先立ちになって、彼の顎にキスした。
「故郷からここまで、ずっとあなたに助けてもらった。 最後までお世話になるわ」
「そう決まったら、さっそく準備だ。 また後で会おう」
 さっとバルコニーから廊下に戻りかけるハワードを見て、リネットは心細くなった。
「後って、いつ?」
「すぐわかるさ」
 その声だけを残して、ハワードは素早くカーテンに消えた。
 
 恋の告白をしたにしては、あまりにもあっけない退場ぶりだった。 リネットは一人たそがれのバルコニーに残され、割り切れない気持ちで、再び海に目をやった。 この美しい南国の渚は、つい百年ほど前まで海賊たちが荒らしまわっていた場所でもあるのだ。 どれだけの人の血が流されただろうかと考えると、胸がずきりと痛んだ。 もうリネットにとって、人さらいや強盗は他所の世界の出来事ではなくなっていた。


 夕食のため、シフォンのドレスに着替えて部屋を出ようとしたとき、リネットは足元に何かを発見して立ち止まった。
 それは、ドアの下に差し込まれた紙だった。 拾って開いてみると、英語の活字体でこう書いてあった。

『父上は無事。 事情あって姿を現せず。 案内されたくば、ただちに当ホテル裏口に来られたし。 他言無用。
O・ハワード』


 リネットの口から、火のような息が吐き出された。
――お父様! 無事なの? 会えるのね、今すぐ!――
 リネットは衣装箪笥に飛んで行き、薄手のショールをすっぽり頭から被った。 そして、きゃしゃな靴を編み上げ靴に履き替えると、そっと廊下に出た。
 裏口に通じる細い階段を、リネットは小鳥のように駆け降りた。 ハワードさんが、彼女のハワードさんが、父を見事見つけ出してくれたのだ! 別れてから夕食までの僅かニ時間ほどで、どうしてこんな手品みたいなことができたのか、リネットは深く考えなかった。 ただ爆発的に嬉しくて、白い壁の続く通路を小走りで抜け、裏口のドアを見つけて飛びついた。




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