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リネットの海  53


 ハワードの腕は、しばらくリネットの肩に置かれていた。
 それが不意に外れて、手が腋の下にかかり、いきなり彼女を高々と持ち上げた。
 リネットは、はっとなった。 初めてハワードの顔を下に見るという経験をした。 ハワードは白い健康な歯を見せて笑い、ユーモラスに言った。
「どうだい? プリマバレリーナみたいな気分だろう? 見渡してごらん。 世界が広く見えるから」
 それから、表情が真面目になった。 サファイアのように鋭く輝く眼で、彼はまばたきもせず、リネットに視線を据えたまま、一言一言はっきりと口にした。
「余計な心配をするな。 事実だけを見て、やるべきことをやれ。 今から悲しんでどうする」
 子供のように空高く差し上げられたまま、リネットは魅入られたようにハワードを見返した。
 やがて、徐々に魂の力が戻ってきた。
――そうだ。 今からくよくよしてどうなる。 最後まで力を尽くして、父を探そう。 そうすれば、たとえ結果が出なくても、後悔はしなくてすむんだ――
 しなやかな強い腕で軽々とリネットを支え、ハワードはホテルの庭のすぐ近くまで広がっている海に顔を向けた。
「生き物は海から生まれたんだそうだ。 泡みたいなもんだな。 それでもしぶとく何百万年も何千万年も地球にはびこっている。
 こうやって高いところから見ると、本当に広いな。 それに、美しい」
 夕べの海には細波が立っていた。 遥か彼方まで光の色に染まった大西洋の広大な姿。 泣きたいほど美しいその景観に目を置いたまま、リネットは手を伸ばしてハワードの首に巻いた。
「あきらめないわ。 パーシー卿に頼んで、通訳できる人を探してもらう。 村中の人に訊いて歩けば、誰かが父を見ているかもしれない」
「そうだ」
 腕を緩めてふわりと抱き寄せて、ハワードは耳元で囁いた。
「通訳ならわたしがやってあげるよ。 二人で探そう」
「ほんと?」
 彼の腕の中にいるのを忘れて、リネットは跳びはねた。 それで、軽く足を踏んでしまった。
「あ、ごめんなさい」
「いいさ」
 ハワードはこともなげに笑った。 リネットはひたむきに彼を見上げ、決意を固めた口調で言った。
「ハワードさん、あなたは同志ね」
 腹にどんな思惑があるにしろ、ハワードは味方側だと、リネットは信じた。 そう信じずにはいられなかった。
 ハワードに高く抱き上げられたとき、リネットは悟ったのだった。 彼を心底愛していることを。
「そうだよ」
 ハワードは普通の調子で答えた。 彼は決して大げさな物言いをしなかった。
 リネットは手首に力を入れて、ハワードの首筋をたぐり寄せた。
「あなたを信じるわ。 ハワードさん、大好きよ」
 一瞬の間を置いて、二人の唇が磁石のように引き寄せられ、ぴたりと重なった。 




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