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リネットの海  50


「チェンバースさんを最後に見かけたのは、七月の後半です。 ええと、確か二十二日か二十三日。 その辺なのですが」
 そこでウィルキンソンは、助けを求めるようにパーシー卿の顔を見た。
「熱で頭がぼやけてしまいましてね、はっきり思い出せません。 なにしろ、ナバスの事故があったりして、大変だったもので」
「そうだったね。 ナバスが馬車に轢かれたのはショックだった。 危険な海に何百回潜っても無事だった男が、平らな道を歩いていて事故に遭うとはな」
「まったくです。 酔っていたそうです。 酒は魔物とはよく言ったものですね」
 パーシー卿はリネットに目くばせした。
「このウィルキンソンは厳格な禁酒主義者でね、ワインさえ飲もうとしないんだよ」
 よく知らない潜水夫の話題に入りこんだ二人に、リネットは少しじれてきた。 それで、体を前に倒すようにして、早口で質問した。
「それでも何か思い出せませんか? ちょっとしたことでいいんです。 いつもと違ったことがありませんでした?」
 ウィルキンソンは口をすぼめて考え込み、あやふやな口調で答えた。
「そう言えば、葬式のとき、チェンバースさんはナバスのおかみさんとしばらく話しこんでいましたよ。 あれがお会いした最後かもしれません」
「そのひとに会ってお話したいわ。 どこに住んでいるか教えてもらえますか?」
 リネットは必死だった。 ちぎれかけたバッグの紐ぐらいでは、警察は動いてくれないだろう。 時間は刻々経ってゆく。 事件か事故か、失踪か…… それさえはっきりしないまま、マーカスが消えて既に半月が過ぎていた。

 カディス郊外のラストロという漁村に、ナバスの家族は住んでいるそうだった。 リネットがメモしていると、パーシー卿が力づけるように肩を軽く叩いた。
「わたしは少し危機感が足りなかったようだ。 マーカスの行方が心配だ。 一緒に調べよう。
 人手が必要だな。 そうだ、ロルフにも頼もう。 リン、ロルフを覚えているかね?」
 気を散らさないように、まずメモをバッグにしまってから、リネットは思い出そうとした。 ロルフはパーシー卿の亡弟の子だ。 独身を通しているパーシー卿にすれば、ただ一人の跡継ぎだった。
「ええ、確か茶色の髪をした丸顔ののっぽさんでしたね」
「そうそう、そうだった」
 そしてパーシー卿は、ウィルキンソンが妙な顔をするのに構わず、くすくすと笑った。
「今でものっぽだよ。 カディスに来ているから、後で紹介しよう。
 ところで、君はもう彼に会ったかね?」
 この問いは、ウィルキンソンに向かって発せられたものだった。 ウィルキンソンは、ソファーの肘掛に載せた頭を縦に揺らした。
「はい、今朝来てくださいました。 マドリッドまで薬を取りに行ってくださるなんて、本当に親切な方です。 おかげで助かりました」
「まあ、他にも買い物があったからな」
 ウィルキンソンの息がだんだん短くなってきたので、もう質問は限界だと悟って、卿とリネットは部屋を出ることにした。

 来てよかった、と、リネットは強く思った。 彼女が訪ねてこなかったら、パーシー卿はチェンバースが怪しげな古物商とぐるになって、勝手な行動をしていると思い込んだままだっただろう。
 怪しげな古物商…… ハワードの隙のない横顔を思い浮かべて、リネットの胸がきりきりと痛んだ。 彼は真性の悪人なのだろうか。 それとも、世間を要領よく泳ぎ渡るタイプの、『清濁併せ呑む』人間なのか。




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