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リネットの海  43


 馬車で行くマドリッドの町は、白や薄灰色の建物が多くて美しかった。 これが春先か秋の終わりならもっと快適だったのだろうが、あいにく八月初旬で、気温が高く、リネットはバッグから扇子を出して扇いでいた。 湿度が低いのが救いだった。
 目抜き通りの中ほどで、馬車は静かに止まった。 一人で降りる前に、リネットはハワードに念を押した。
「お父様がこのホテルにちゃんといても、必ずもう一度会いに来てね。 夕方、ホテルの外に出て待ってるから……」
「それは止めなさい」
 ハワードが真顔で遮った。
「ここは穏やかに見えるが外国だ。 女性一人で人待ち顔に立っていたりしてはいけない。 たしかこのホテルには中庭がある。 暗くなったら裏から入って待っているよ」

 ハワードに見送られて、リネットはホテルに入っていった。 広いロビーの右奥にカウンターがあり、細い髭を生やしたフロント係が女性客に電報を渡しているところだった。
 客の横に並んで、リネットは係に尋ねた。
「あの、マーカス・チェンバースの部屋は何号室でしょう?」
 以前絵葉書で見た闘牛士に似た風貌のフロント係は、黒い眼でリネットをまっすぐ見返し、歌うような英語で答えた。
「312号室でございます。 ただ、チェンバース様はここ二週間ほど、お戻りではございませんが」

 二週間も! リネットは新たな不安で喉が詰まった。
「地中海のほうへ行ったきりなんでしょうか?」
「さあ、わたくしどものほうでは何とも」
 どうしよう。 どうやって父と連絡を取ったらいいのだろう。 そもそも父は、どこにいるのか。 本当に難破船引き上げ現場にいるのだろうか……
  肩を落として、リネットは荷物と共に近くの長椅子に向かい、ぽつんと座った。 考えを整理するためだった。
 このホテルに新しく部屋を取ろうか。 それともマーカスの娘と明かして、父の部屋に入れてもらおうか。
 だが、リネットは身元を証明するものを持っていなかった。 いわば、不法在留者だ。 それに、名前を知られれば、たぶん執事のウィルバークがよこした密偵に知られて、すぐ連れ戻されてしまいそうだ。
 ああ、どうしよう――うつむいて知恵を絞っているとき、前を長い脚が横切り、聞き覚えのあるバリトンがフロアに響いた。
「あ、君、ちょっと出てくるから、鍵を預かってくれたまえ」
 たちまちリネットは兎のように飛び上がって、受付に向かうその紳士の傍に駆けよった。
「おじさま! パーシーおじさま!」




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背景:トリスの市場
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