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リネットの海  38


 馬車はギシギシと横揺れしながら一時間ほど進み、地面に生えたような農家の前庭に止まった。
 素早く飛び降り、リネットを抱え下ろすと、ハワードは小声で言った。
「今夜はここに泊まる。 パレンシアまで約百マイル(≒百六十キロ)だが、マドリッドまではその倍あるんだ。 スペインは広い」
「マドリッドまでずっとこの馬車で?」
 リネットが無邪気に訊くと、ハワードは顔をほころばせた。
「いや、途中で分解してしまいそうだからな。 パレンシアに着けば駅馬車がある。 普通の旅行者として、それに乗っていこう」

 大きな農家に見えたものは、一応旅館だった。 二人は二階の端と端の部屋に分かれて泊まり、翌朝早く、バスケットにサンドイッチと果物、それにワインを詰めてもらって出発した。
 馬車の車輪はきっちりとした円になっていず、微妙に楕円だったり四角ばっていたりした。 そのせいで、平らな道を通っていても波に揺られるように妙な動きをする。 人っ子一人いない農道に出て、ハワードが遠慮なく引き馬を走らせたから、なおのこと振動が激しくなった。
 リネットは、ポンポン跳ねる馬車をむしろ楽しんでいた。 イギリスのとは違い、長いパンを横に切ってチシャと青チーズをはさんだサンドイッチもおいしかった。 パンをちぎり、瓶からコップにワインをついで、かいがいしく御者役のハワードに渡しながら、リネットは考えていた。
――こんな旅なら、ずっと続いてもいいな。 天気はいいし、周りの景色もイギリスとは全然違って、のどかで明るい――
「不思議な色の道ね」
 よれっとした帽子を阿弥陀にかぶり直して、ハワードは答えた。
「テラ・ロッサだ。 薔薇色の大地とという意味なんだが、きれいだろう?」
 薔薇色か…… 改めて見回すと、たしかにそう言ってもおかしくなかった。 物知りだなあ、と、リネットは改めて感心した。
「ハワードさん、宿屋の人とスペイン語で話してたわね」
「二言三言だ」
「それでもちゃんと通じてた。 いろんなこと知っていて、尊敬しちゃうな」
「ただの貿易商だよ。 専門は近世の家具だが、その他にもステンドグラスとかイコンとか、古物は一応取り扱うんだ。 だからあっちこっちに行って、言葉もあれこれ聞きかじってしゃべる。 それだけのことさ」
 リネットは驚いて座りなおした。 古物商なら知り合いがいる。 父の道楽が探検だから、持ち帰った品物を鑑定してもらったり、時には買い取らせたりするのだ。
 古物商も数々いるから、まさか顔見知りではないと思ったが、リネットは一応訊いてみた。
「父の友達で、マンザーニさんという鑑定家がいるの。 聞いたことある?」
 ハワードはすぐに反応した。
「パブロ・マンザーニだろう? 知ってるよ」




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背景:トリスの市場
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