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リネットの海
35
夜の九時に迎えに来ると言い残して、ハワードは独特の歯切れのいい歩き方で横丁の外れに姿を消した。 リネットは、無意識のうちに唇に手を当てて、数秒間ぼうっとしていた。
それから思い出した。 レストランへ向かう途中だったことを。 あわてて表通りに出てみると、ダニエルはとっくにテラスの椅子に座って、ワインを飲みながら料理を待っていた。
リネットが小鳥のように飛んでいくと、ダニエルは悠々と笑顔で迎えた。
「こっちに座りな。 料理は見つくろって注文しといたから、もうじき来ると思うよ」
リネットは息を切らせながら説明しようとした。
「あのね、私も知り合いに出会ってね」
「それで懐かしくてキスしちゃったと」
見てたんだ! たちまちリネットの顔がゆでだこのようになった。
「いえ、あれは、その……」
「焦ることないよ。 よさげな男じゃないか。 船乗りには見えなかったが」
あたふたしながらも、リネットはダニエルの目にハワードがどう映ったか知りたいと思った。
「そう? あの人、何に見える?」
少し考えた後、ダニエルはもっともな答えを返した。
「紳士、だな」
やがてテーブルに運ばれたのは、エル・モンタニェスという肉といんげん豆の煮込み料理と焼きはまぐり、そしてやっぱり、ムール貝山盛りだった。 リオハの白ワインと共においしく頂きながら、リネットは何度か街路に視線を走らせた。 またあの赤白ベストがひょっこり姿を見せないか、心配だった。
幸い、男は二度と現れなかった。 カフェでしばらくくつろいだ後、ダニエルは小さく口笛を吹きながら、リネットをそぞろ歩きに連れ出した。
細工物の店をひやかし、公園で楽隊の演奏を聴き、シェスタの後に恒例の散歩に混じって夕暮れの街を行ったり来たりした後、二人は気持ちよく疲れてホテルに戻った。
入口前の階段に、アントンが人待ち顔で立っていて、ダニエルとリネットを見つけると大きく手招きした。
「やっと帰ってきたな。 さらわれたんじゃないかと、マダムが心配していたぞ」
ダニエルは笑い飛ばしたが、リネットはちょっと首をすくめた。
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トリスの市場
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