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リネットの海  34



 どんと相手の体にぶつかって、リネットは一瞬息ができなくなった。
「お、勢いよくやりすぎた。 痛かったかい?」
 耳に覚えのある声……急いで顔を上げて、ハワードのしっかりした眼差しを受け止めたとたん、リネットは心からほっとして膝の力が抜けた。
「ハワードさん! 来てくれたのね」
「約束だから。 それにしても、ずいぶん雰囲気が変わったな。 そのヘアスタイル、カツラかい?」
「染めたのよ。 わけがあって……」
 更に言葉を継ごうとしたとき、小路の奥から人が現れた。 その姿を垣間見た瞬間、リネットは紺色のセーターを着たハワードの胸に、すっと体を丸めるようにして隠れてしまった。
 ハワードが声を落として訊いた。
「どうした?」
 リネットも囁き声で答えた。
「その『わけ』がこっちへ来るの。 船で一人旅の娘を探してた人。 たぶん私のことだと思う」
 ハワードの肩が、少し持ち上がった。 その様子は、身構える豹を思わせた。
 せかせかした足音は、すぐに近づいてきた。 まさかとは思うが、変装を見抜かれたのだったら…… もっと考えて動けばよかった。 わざとらしく隠れたりして余計な注意を引いてしまったかも。 大きな男性の体に隠れた形になっている不自然さを、リネットは強く意識した。
 赤白のベストを着た例の男は、あと五歩ほどの距離までやって来た。 間もなくハワードの前で小さくなっているリネットを見つけるはずだ。 もう数秒で面倒なことに……
「いいかい。 用心のため顔を見えなくするからね。 ちょっとだけじっとしていて」
ごく小さくささやくと、ハワードの腕が、すっとリネットの背中に回った。 そして、上向きに引き寄せるなり唇を重ねた。

 リネットの眼がまん丸に見開かれた。 勢いで落ちかけた帽子を、とっさに片手で押えたものの、もう片方の手をどうしたらいいかわからず、だらりと下げっぱなしになった。
 横の足音は、止まることなく通り過ぎていった。 その靴音が聞こえなくなるまで、ハワードはリネットを引っ張り上げるようにしてキスしたままだった。

 顔が離れて、ようやくリネットは息をつけた。
 まだ腕は離さずに抱きしめたまま、ハワードは低く尋ねた。
「今、どのホテルにいる?」
 頭はくらくらするし、目の前に光の輪が浮かんでいる感じで、リネットは思い出すのに手間取った。
「ええと、フリアーノ・ロ……ロホーレス」
「ロドリゲスだろう?」
 笑って、ハワードは腕を解いた。 そして、リネットの帽子の紐を優しく結び直した。
「サントドミンゴ通りのホテルだね。 ラディーンさん達はここで興行するみたいだから、今日中にお別れを言っときなさい。 今夜マドリードに出発しよう」
 まだ周囲の景色が揺れていたが、リネットはあやふやな笑顔を作ってうなずいてみせた。




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