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リネットの海  33



 シャンタルが予約していたのは、海が見える小奇麗な白いホテル『フリアーノ・ロドリゲス』だった。 一行が、港から乗ってきた馬車を降りると、入口には花台が置かれ、歓迎の垂れ幕が下がり、階段には何と、赤い絨毯が敷かれていた!
 中から、髭の立派な支配人が飛び出してきて、見事な英語でまくし立てた。
「ラディーン様、ようこそスペインへ! 当ホテルをご利用いただきまして、まことに光栄でございます」
 アントンに手を取ってもらって優雅に馬車から降り立ったシャンタルは、別に驚きもせず、にっこりと微笑んだ。
「お心尽くしありがとうございます。 しばらくお世話になりますわ。 よろしく」

 部屋は当然最上階の特等室で、四室借りきりだった。 リネットはシャンタルの続き部屋に入らせてもらった。
 見事な部屋だった。 柱には彫刻がほどこされ、壁には淡い唐草模様のシルクが一面に張られていた。 浮き立つ気分で、リネットは飾り枠のついた窓を開き、さわやかな浜風を胸一杯に吸い込んだ。
「ここはもうスペインなんだわ。 あと何日かでお父様に会える。 きっと何もかもうまくいくわ!」
 いつも薄霧がかかったような英国と違い、こちらの空気は透き通っていた。 行く手にどんなものが横たわっているかも知らず、リネットは若さゆえの楽天主義で、未来をひたすら待ちこがれていた。


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 翌日の午前中には、劇団のスタッフと共演者たちがシャンタルを訪れてきた。 いろいろな打ち合わせに午後一杯かかるということで、シャンタルはダニエルに言いつけた。
「町へ遊びに行きたくてうずうずしてるんでしょう? いいわよ。 はい、お小遣い。
 リンちゃんも町見物に連れていってあげてね。 ちゃんと面倒見るのよ」
 ダニエルは大喜びで、最敬礼してリネットの手を取り、階段を軽やかに駆け下りた。

 街路樹の立ち並ぶ道に出てから、ダニエルは盛んに周囲を見渡した。
「俺スペインは初めてなんだ。 アントンは子供の頃来たことがあるって言ってたが。
 どうする? まず腹ごしらえしようか」
「そうね」
 二人は子供のように手をしっかり繋ぎ、のんびりと石畳の道を下っていった。

 やがて角に、レストランが見えた。 カフェ風にテラスへ椅子を出して、五人ほどの客が早めの昼食を取っていた。
 ダニエルは立ち止まり、店を指差した。
「あそこにしようか」
「お皿に山盛りね! あれ何かしら」
「たぶんムール貝だ。 イギリスにもあるよ」
「そう? 私は海の近くにあまり行ったことがなくて」
「俺はあっちのオヤジが食べてる煮込みがうまそうだな。 あれにしよう」
 行く先を決めて、二人がまた歩き出したとたん、道の反対側から声が聞こえた。
「ダニー! おまえ、ダニーじゃないか!」
 けけんそうに顔を向けたダニエルは、一瞬息を止め、それから大声で叫び返した。
「マット! おまえ船乗りになってたのか!」
 そして、上着がはためくほどの勢いで道路を突っ切り、袋を肩に下げて船員帽を粋にかぶった若い男と、がっちり抱き合った。
 二人は古い知り合いらしく、夢中で話しこんでいた。 忘れられてしまったリネットは、手持ちぶさたにしばらくたたずんでいたが、他にすることもないので、レストランの方角に歩き出した。
 五歩ほど進んだそのとき、細い横丁から不意に腕が伸びて、あっという間にリネットを引きずりこんだ。




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