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リネットの海  30



 リネットがダニエルと仲よく肩を並べて、食堂の方角へ歩き出したちょうどそのとき、背後で押えぎみの男の声がした。
「ちょっと、船員さん」
「はい、何か?」
 パーサーらしい声が慇懃に答えた。
「この船に、十六、七の娘さんが独りで乗っていませんか?」
 ダニエルの歩みが、わずかに遅くなった。 いつも明るい笑みをたたえている顔が、見上げたリネットの眼には、ぴりっと締まったように思えた。
 パーサーはすぐに返答した。
「いいえ、女性のお客様は全員、同伴の方がいらっしゃいます」
「ふうん」
 残念そうに、男はなおも食い下がった。
「ブルネット(←黒髪)で可愛い子なんだがね。 頭文字はL・C、だと思うんだが。 これでちょっと教えてもらえないかな」
そこで、パーサーはきっぱりと遮った。
「いえ、お金は頂けませんし、本当にそういうお客様はおられません」
「そう?」
 男はようやく諦めたらしく、足音が遠ざかっていった。
 ダニエルは、話の間さりげなくリネットの後ろに回りこんで、大きな背中で彼女を隠していた。 ゆっくりと食堂の入口に着くと、彼は何気なく振り向いた後、腹話術のように、口をほとんど開かないでリネットに話しかけた。
「ヒョロッとした若い男だ。 鼻の下にちょび髭を生やしてる。 二十代後半ぐらいかな。 明るい茶色の上下に、派手な赤と白のベストを着てる。 心当たりは?」
「ないわ」
 リネットもごく小声で答えた。 執事のウォルバーグが差し向けた召使の一人だろうか。 痩せているのはワイヤットかケリガンだが、どちらも中年だ。 二十代には見えないはずだ。
「リン・カーフェル……確かに頭文字L・Cだね」
「カーギルよ」
 反射的に訂正しながらも、リネットはダニエルの肘の横から目だけ出して、男を覗き見ようとした。 だが残念なことに、男はすでに早足で、甲板の遠くまで去ってしまっていて、確かにひどく痩せていることしかわからなかった。

 普段はあっけらかんとしているダニエルなのに、このときは珍しく心配顔だった。
「食堂は止めといたほうがいいかもしれないよ。 部屋に戻りな。 マダムに頼まれたと言って、俺が料理を運んであげるよ」
「ありがとう」
 ダニエルにうながされて、リネットは大きな彼に隠れるようにして自分の部屋に帰った。 ダニエルはそこからまた、食堂に引き返していった。




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背景:トリスの市場
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