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表紙

リネットの海  29



「こんな時間に起こして悪かった。 君が無事なら、それでいいんだ。 スペインに着くまでもう会えないが、元気で」
「ハワードさんも」
 暖かい微笑を残すと、ハワードは帽子を目深に被り直して、用心しながらドアを開き、音もなく忍び出ていった。

 再びベッドに入ったものの、リネットはなかなか眠れなかった。 
――ハワードさんは危ない取引をしているらしい。 商売がきれい事だけでは済まないことは、お父様から聞いて少しは知ってるけど、でも一人だけで動いて大丈夫かしら。 ハワードさんも用心棒を雇えばいいのに――
 ディーディーとこっそり読んだ少年向きの冒険小説が、頭をよぎった。 主人公の男の子たちは、炭焼き小屋に閉じ込められたり、崖の上で乱闘したり、いろんな危険に襲われるのだ。 もしハワードさんがあんな目に遭わされたら……嫌だ! 絶対に嫌だ!
 考えただけで身震いがして、リネットはベッドから飛び起きてしまった。


 結局、朝まで眠ることができず、リネットは七時にはもう身支度を終えて、甲板に出た。 メイクしなくても、本当にうっすらと目の下に隈ができていた。
 ずっと左手に見えていた岸がぐっと近づいて、船はもうじきポーツマスの港に入るところだった。 有名なリゾート地だから、海岸線はきれいに整備され、遊歩道のところどころにヨットハウスやコテージが散在している。 しゃれた綺麗な海岸だな、と、リネットは感心して、ゆるやかに広がる海辺を見渡した。
 間もなく船は接岸して、陸から船へ板が渡された。 リネットは首をできるだけ伸ばして、仮設ブリッジを上り下りする乗客や船員を確かめた。
 やがて目当ての人が見えた。 派手な縞シャツを着た下級船員の横をすり抜けるようにして、昨夜の服装のまま、ハワードが降りていった。
 彼は帽子の鍔を深く下ろし、一度も振り向かずに、大股で立ち去った。 そのすっきりした後ろ姿を、リネットは物足りない気持ちで見送った。 なんとなく、体の一部を持っていかれるような感じがした。


 荷物と乗客の積み込みが終わって、船はそれから十五分ほどして出発した。 これから英国海峡を通り、いよいよ外海に出るのだ。
「でも、その前にまず朝ご飯」
 気持ちを引き立たせるために明るく呟いて、リネットは食堂に入っていった。
 壁の時計は七時五十三分を指していた。 ラディーンさんたちはまだかな、と、周囲を見回していると、ポンと背後から肩を叩かれた。
「おはよう」
 首を回すと、ダニエルの陽気な顔がすぐ傍にあった。
「今朝はね、マダムが船長に招かれちゃって、船長室で食事なんだ。 だからリンちゃんは俺らと一緒に食べよう」
 アントンが一緒なら、それもいい。 リネットはにこっと笑ってうなずいた。 




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