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リネットの海  26



 懸命に笑顔をつくろい、リネットは言い訳した。
「ええと、前に勤めていた家で、行儀見習させてもらって、いろいろ教えこまれたんです」
 シャンタルは、素早く流し目をくれた。
「そう? まあ、よかったわね。 それで、と、もうそろそろお開きにしましょう」
 彼女がスマートに立ち上がると、ダニエルたちも礼儀正しくすぐ立ったが、彼らだけでなく周囲のテーブルまで一斉に人が席を立って、盛んに拍手を送った。
「我等がシャンタル・ラディーンさんに、スペイン興行の成功を祈って!」
 ボーイが素早く狭い通路を縫って歩いてきて、シャンタルのテーブル全員にシャンペンのグラスを渡した。
「あちらの紳士のおごりです。 憧れのラディーン様へと」
 シャンタルは、にこっと笑って、立派な髭の紳士にグラスを掲げてみせた。
「ありがとう。 皆様のご好意に感謝いたします!」
「乾杯!」
 客たちが声をそろえ、賑やかにグラスを合わせる音がひとしきり響いた。

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「私って、変装が下手?」
 寝る支度を終え、鏡の前に座って、リネットは左右対称の自分に小声で話しかけた。
「しょっちゅう使用人部屋で遊んでるから、真似するの簡単だと思ったんだけどな」
 ラディーンさんは職業柄、観察力が鋭いだけだ。 そう思いたかった。 ともかく、まだ素性を知られるわけにはいかない。 無事、父に再会するまでは。

「うー、眠い!」
 ベッドの上掛けをめくって、飛び込んだとたん、瞼がくっついた。
 熟睡していた耳に、場違いな音が次第に大きく聞こえてきたのは、明け方近くだった。 なかなか開かない目をこすって、リネットは体を起こした。
 誰かがドアを叩いている。 乱れ、切羽詰ったノックの仕方だった。
「だれ?」
 ぼうっとした口調で尋ねると、驚くべき答えが返ってきた。
「僕だ。 ハワードだ! 開けてくれ!」

 リネットは激しく目をこすり直し、ベッドからすべり降りると、内鍵を開けた。 そのとたんに、黒尽くめの大きな姿が機関車のように飛び込んできて、ドアの後ろにピタッと張り付いた。




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