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表紙

リネットの海  23



 ちょっとの間、リネットはダニエルの言ったことがよくわからなくて、ぼんやりしていた。
 それから、はっとして目を見開いた。 パスポート…… そうだ、いくら近くの国でも、大英連邦の一員ではないのだから、入国するにはそれなりの手続が必要なんだ!
「パスポートが要るなんて、気がつかなかった」
 リネットが呟くと、やっぱり、という表情で、ダニエルは笑顔になった。
「マダムのお付きになればフリーパスだよ。 シャンタル・ラディーンさんはスペインでも有名で、信用があるから」
 その言い方はいかにも自慢げだった。 ダニエルは雇い主を誇りに思っているらしかった。
 ちょこんと座ったトランクの上で、リネットはダニエルのほうに身を乗り出した。
「でも、ラディーンさんは私を小間使いとして連れてってくださるかしら? まだ会ったばっかりなのに」
「大丈夫」
 ダニエルはいとも気軽に請け合った。
「マダムはお嬢ちゃんを気に入ってるし、僕が頼めば絶対に許してくれるさ」


 そんなにうまく行くものだろうか。 半信半疑で、リネットはダニエルに続いて船に上がった。
 シャンタルは、もう船室に入ってくつろいでいた。 横にはアントンがいて、ごつい指先で化粧品をポーチから取り出し、鏡の前にきちんと並べていた。
 ドアが半分開いていたので、両手のふさがっているダニエルは、さっさと肩で押して入室した。 帽子箱を一緒に運んできたリネットは、さすがに遠慮ぎみに、ドアの前で立ち止まった。
 トンボの羽のように薄い扇子を優雅にはためかせて、シャンタルは上機嫌でダニエルに呼びかけた。
「ご苦労さま、重かったでしょう。 あの倉庫番、よく仕事をさぼって飲みに行ってるのよ。 だから営業時間が短くて困るわ」
「今日は二日酔いだそうです。 頭が割れそうで十時まで寝ていたなんて言ってましたよ」
「ああ! それで倉庫が開かなかったのね! 今度ミラー主任に文句言ってやる」
 トランク二つと帽子箱を床に積み重ねると、ダニエルは入口を振り返って、リネットを差し招いた。
「カーメルお嬢ちゃんを見つけましたよ。 一緒に旅するはずだった男の人が、切符を持ったまま姿をくらましているようなんです」
「あら大変。 でも心配しないで。 私が連れていってあげるから」
 そうあっさり言うと、シャンタル・ラディーンはきれいに輪郭を縁取って塗った薔薇色の唇をほころばせ、明るくリネットに微笑みかけた。




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背景:トリスの市場
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