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表紙

リネットの海  20



 馬車の行き交う道を歩きながら、二人はぽつぽつ話をした。
「お連れは嬢ちゃんを大事にしないね」
「黙って行っちゃったこと? 確かにそうだけど、ついてきてほしいと私が強引に頼んだ立場だから」
「親戚か、近所の人?」
「ううん。 汽車の中で初めて逢ったの」
 感心しない風で、アントンは重々しく首を振った。
「知らない男に道連れを頼むの、とても危ない」
「ハワードさんは信頼できるわ。 私、人を見る目はあるの」
 小さな鳩のように胸をふくらませて言い切ったリネットを、少しの間アントンは横目で眺めていたが、それ以上たしなめるようなことは言わなかった。


 無事ケンドール・ホテルに送り届けると、正面玄関の前で、アントンは立ち止まった。
「それではここで」
「ありがとう。 ね、ラディーンさんも明後日のスペイン行きの船に乗る?」
「乗るよ」
「じゃ、そのときまた会えるわね」
 少女の人なつっこい笑顔につられて、アントンもわずかに口元をほころばせた。
 リネットはすぐホテルに入らず、遠ざかっていくアントンの広い背中を見ていた。 彼の忠告が今になってじわじわ効いてきたのだろうか。 かすかな不安がきざしていた。
――ハワードさんを迎えに来たのは誰だろう。 すぐに帰ってきてくれるかな。 仕事がうまくいかなくて、ここに残るなんて言い出されたら困るな――
 それでも、リネットはすぐ気を取り直した。 くよくよしていても始まらない。 部屋に戻ってスペインに関する本でも読もう。 アルマーダ(=無敵艦隊)やカール五世、ハプスブルグ家や宗教改革について。
「海賊の話のほうが面白いんだけどな」
 紫陽花の鉢が飾られたロビーに入るとき、小さく溜め息が出た。


 夕食の時間になっても、ハワードは帰ってこなかった。 仕方なく、リネットは食堂でひとり、マトンと燻製の鮭、ピラフという食事を取った。 食堂に来たのは十人ほどの客で、半分は単身の男だったから、リネットがぽつんと食べていてもそれほど違和感はなかったが、殺風景でつまらない食事となった。

 翌朝はちゃんと六時半に起きて、リネットはドアがノックされるのを待った。 しかし、八時を過ぎても誰も来ない。 思い切って、自分から308号室に行って、そっとドアを叩いた。
「ハワードさん!」
 返事はなかった。




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