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リネットの海  11



――どうしよう――
 白くなった頭の中を、その一言だけが駆けめぐった。
 追いかけようにも、もう列車は速度を増して、どんどん駅から離れていっている。 逃げ足がやたら速かったから、たとえ後を追って飛び降りても追いつけそうにないし。
 困りはてて、リネットが狭い通路を行ったり来たりしていると、背後で冷静な声が聞こえた。
「ちょっと君、名前は?」
 呼ばれたのは髭が立派な車掌だった。
「キャメロンです。 何か?」
「引ったくりが出た。 被害者はあそこの娘さんで、紺色の手提げを取られた」
 キャメロン車掌は急いでリネットの方に目を向け、手帳を胸ポケットから出して近づいてきた。
「手提げを引ったくられたそうですが」
「はい」
 今になって怒りが込み上げてきて、息が荒くなった。
「さっきの駅で降りて、逃げていきました。 ええと駅の名は確か……」
「サンドリッジ駅ですね? 犯人はどんな奴でした?」
「背は五フィート半ぐらい。 ハンチング帽を被ってチェックのズボンで、たぶん十八か十九ぐらいで……そうだ、額のこの辺にほくろがありました」
 車掌は難しい顔になった。
「どうもそいつは『鉄道小僧』らしいですな」
「鉄道小僧?」
「ええ。 あっちこっちの線に乗りまわって、スリだの置き引きだのを繰り返している常習犯ですよ。 次の駅で手配しておきますが、すばしっこいんで捕まるかどうか」
 盛んに首を振りながら、車掌は更に盗まれた品について詳しく尋ね、メモした。
 車掌が去った後、リネットはがっかりして車室に戻ろうとして、入口の脇に立っている男と、あやうく衝突しそうになった。
「前を見て歩きたまえ」
 さっき耳にした冷静な声が降ってきた。 リネットがしぶしぶ目を上げると、眼鏡の男と視線が合った。
 それは、同室の無愛想な乗客だった。 彼が車掌に知らせるような親切心を持っているとは思わなかったので、リネットは少し驚いた。
「あ、ごめんなさい。 それに、さっきはありがとう」
 男のほうがよけて通してくれたから、リネットは先に入って座席に座り、手袋をめくって、切符だけは無事なのを確かめた。
 また向かいに腰を下ろした男は、ちらちらとリネットを見ていたが、やがてたまりかねたように尋ねた。
「いくら盗まれた? 全財産か?」
 そうではなかった。 ポシェットに入れていたのは、これから船の切符を買うための百ポンド。 それでも相当な大金なので、リネットはしょげていた。
「まだ鞄に残っているけど……」
 男は軽い溜め息をついた。
「いいかい君、無用心すぎる。 金のありかを他人に簡単に言ってはいけない」
 リネットは、うるうるした眼を相手に向けた。
「泥棒、捕まるかしら」
「捕まっても金は戻ってこない」
 男はきっぱりと断言した。
「泥棒やスリは、盗品から金目の物だけ素早く抜いて、後は捨ててしまうんだ。 だから証拠を掴むのも難しい」
 リネットの肩が落ちた。





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