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表紙

リネットの海  10



 列車は灰白色の煙を吐きながら、ゆるやかな丘を越え、草原を掻き分けるようにして進んだ。
 リネットは、遠足の子供のようにわくわくしていた。 父は世界中を飛び回っているが、これまで娘のリネットを一緒に連れていったことはない。 観光旅行をしているわけではないから当然だが、リネットはずっと不満だった。

 半時間ほど走ると、次の停車駅が近づいてきた。 先ほど切符を改めにきた車掌が、背筋を伸ばして触れ回った。
「次はサンドリッジ、サンドリッジ!」
 ずっと座っていたので体の節々が強ばった。 リネットは、汽車がぎしぎし言いながら停車すると、通路に出て、窓から細長い駅を眺めた。
 乗ったとき最初に覗いた車室の若者が、低く口笛を吹いて歩いてきた。 そして、窓の縁に寄りかかるようにしているリネットに笑いかけた。
「やあ、どこまで行くの?」
 リネットもすぐ笑い返した。 丁度誰かと話したい気分だった。
「リヴァプールよ」
「へえ、どこかのお屋敷へ奉公に?」
 若者はリネットと並んで窓辺に立った。
「どうしてそう思うの?」
「だって君、かわいいから。 いかにも金持ちの奥さんに気に入られそうな雰囲気だなと思って」
 さっきの女優シャンタル・ラディーンもそう言ったっけ。 それまで自分の器量をあまり気に止めたことのなかったリネットは、立て続けに褒められて気分をよくした。
「そう? ありがとう」
「お屋敷のご主人に気をつけるんだよ。 君みたいな純情そうな小間使いにはすぐ手出してくるんだから」
「そうなの?」
「そうさ。 ほら、こんなふうに」
 若者はふざけた調子で両手を広げ、迫ってきた。 リネットはちょっとむっとして、軽く押してたしなめようとした。
「ちょっと、止めて」
 人を叩くときには利き手を使う。 リネットもご多分に漏れず、ポシェットを下げた左手ではなく、右手を振り上げて身を防ごうとした。
 その一瞬を、若者は逃さなかった。 左手をサッとひるがえして注意を引いて、その隙に右手でリネットのポシェットを引ったくった。
 電光石火の素早さだった。 一瞬、リネットは何が起きたかわからなかった。
 ほぼ同時に鋭い笛の音が響き、汽車がゆっくりと動き出した。 若者は通路を駆け抜けて、扉を開け、ぴょんと飛び降りて、あっという間にリネットの視界から姿を消した。





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