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表紙

リネットの海  9



 美人は、余裕を持ってリネットに向き直った。
「ありがと。 私が誰か知ってる?」
 リネットは戸惑った。 有名人なんだろうか。
「え……いいえ……」
「いいのよ、そんなに申し訳なさそうにしないでも」
 金色がかったグリーンの瞳が、面白そうにまたたいた。
「私はシャンタル・ラディーン。 女優よ」
 派手で、どことなく異国的な香りのする名前だった。 聞き覚えはなかったが、子供っぽく息を弾ませて、リネットは答えておいた。
「女優さん! きれいですね」
「うふん」
 満足そうに、ミス・ラディーンはにんまりした。
「あなたなかなか可愛いわ。 舞台に出たくなったら、ロントンの私のところにおいでなさいな。
 ダニエル、名刺」
「はい、マダム」
 茶髪のダニエルが、持っていた事務用鞄からサッと名刺入れを取り出し、ラティーンに渡した。 中から花模様のカードをトランプのように一枚引いて、ラディーンは優雅にリネットの手の上に落とした。
「そうだ、あなたのお名前も聞かなくちゃ」
 リネットは素早く、旅行中の偽名にと考えた名前を思い出そうとした。
「リン・カーギルです」
「リンちゃんね。 また会えるといいわね」
 ちょうど、馬車を呼びに行ったアントンが戻ってくるところだった。 二人の美男子を従え、優雅に腰を揺らしながら去っていく女優の後ろ姿を、リネットはしばらく目で追った。 そして、ああいうのを女らしいというんだろうな、と思った。

 そろそろ停車時間が終わりかけていた。 駅員が大声で呼ばわりながら巡回を始めた。
「発車ー! 後二分で発車でーす! マンチェスター、リヴァプール行きー」
 リネットは、急いで名刺をコートのポケットに入れ、荷物を両手に下げて列車に歩み寄った。 表のドアを開けて乗り込むとき、指からほんのり上品な香りがただよった。 たぶん、カードからの移り香だった。

 列車はわりと空いていた。 最初に覗いたコンパートメントには、目のくりっとした巻き毛の若者が乗っていて、覗いたリネットと視線が合うと、パチッとウインクしてきた。
 これはまずい。 話しかけられたら田舎娘の芝居をやりとおす自信がなかった。 リネットはドアのレバーにかけた手を引っ込め、隣りの車室に歩いていった。

 そこも間が悪いことに、男が一人座っているだけだった。 ただしこっちは茶色のきゅうくつな三つ揃いのスーツを着て、太い縁の眼鏡をかけ、四つに畳んだ新聞を読みふけっていた。 そして、遠慮がちに踏み込んできたリネットに、ちらりと陰気な視線を投げると、脚を組み直して窓のほうへ尻をずらした。
 明らかに、仲よくしようという気持ちはなさそうだった。 そのほうが助かる。 ほっとして、リネットは荷物棚にバッグを載せ、彼の斜め向かいの席に腰を下した。





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