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表紙

リネットの海  8



 足には自信があるつもりだった。 だが、町の一等地にあるお屋敷は中心街から遠く、鉄道の駅までは結構な距離があった。 それに、近道の下町を通っていくと、休みを取っている使用人にばったり出くわす危険がある。 静かな郊外を回り道したので、更に長くなった。
 人通りの少ない道路を行くのは、別の不安も加わった。 まだ日は高いが、酔っ払いに遭うかもしれないし、たまには引ったくりや、もっと悪い奴に襲われる可能性もある。 カサッと背後で物音がするたびに、リネットは反射的に足を速めた。 何度か振り返ったりもした。
 背後は静まり返っていた。 ごくたまに、羊を追う農夫や籠を抱えたおかみさんが遠くを歩いているのが見えるだけだ。 それでもリネットは、ひそやかな目が鷹のように自分の背中を追っているというぞくぞくするような想像から、なかなか逃れられなかった。


 低い丘を二回上り下りして、リネットはようやく街に入った。 駅はもうすぐそこだった。
 平日の午後だから、駅にも人は少なかった。 リヴァプール行きの二等切符を買った後、無くさないように、リネットは手袋の内側に押し込んでおいた。 用心深いキャサリンおばがいつもそうするのだ。
 前もって時刻表で調べておいた通り、四時十五分ごろに黒光りする機関車がホームに入ってきた。 腕章をした車掌が車両から降り、懐中時計を取り出して自慢そうに呟いた。
「よし、一分足らずの遅れだ」
 赤帽がカタカタと小気味いい音を立てて、タラップを車体から引き下ろした。 その赤い縁のついた一等車のタラップを、羽根と毛皮で埋もれそうな女性が長煙管をくわえて、気取って降りてきた。 後ろには大きなトランクを抱えた従者が二人。 地味な駅には似つかわしくないその姿に、思わずリネットは見とれてしまった。
「ダニエル、角にぶつけないでね。 そのトランク、セーム革なんだから。 それからアントン、横向きに置かないでよ。 四十年物のワインが入っているのを忘れないで」
「はい、マダム」
 二人の若者は従順に答え、恭しく巨大な荷物を手押し車に下ろした。
 世間知らず丸出しでリネットが見つめていると、大輪のしゃくやくのような美人はヘイゼルグリーンの大きな眼を細めて、にっこり笑いかけた。
「こんにちは、お嬢ちゃん。 このかわいらしい町で一番のホテルといったら、どこかしら?」
「ローランド・ホテルだと思います」
 思うも何も、そこしか知らなかった。 だがこの美人は、人を信じ易い性質のようで、すぐに金髪のほうの若者に言いつけた。
「アントン、馬車を呼んできて。 ローランド・ホテルへ行くようにってね」
「かしこまりました」
 美男の熊、といった感じの金髪青年アントンは、きびきびと向きを変え、表の広場にたむろしている辻馬車目指して走っていった。




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背景:トリスの市場
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