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表紙

リネットの海  7



 七月二十九日の午後、リネットは遂に家出を決行した。
 探し回られては困るので、食堂のテーブルに置手紙を載せておいた。 中には、寂しくなったからコヴェントリのキャサリン叔母のところへしばらく行く、と書いた。 こうしておけば、父に会うまでの時間稼ぎになる。 合流できたらすぐに、執事のウォルバーグに電報を打って安心させればいい。

 念のため、その日は使用人たちに休みを取らせた。 みんないそいそと遊びに行ったり、実家へ帰ったりしたが、一人だけが頑固に台所で頑張っていた。 料理番のエッグだ。 本名はバーサ・エグレモントというのだが、誰もがエッグおばさんとしか呼ばなかった。
「あたしまで浮かれ歩いたら、お嬢様の食事はどうします? どうせやもめで行くところもなし、留守番して面倒見てあげますよ」
 そう張り切るエッグは、正直言って有難迷惑だったが、愛情深いその申し出を断わるわけにもいかない。 きっちりと昼食を食べさせられてから、リネットは自室にこもり、大急ぎで着替えをした。

 粗末な服にドタ靴、よれっとなった帽子。 ディーディーのアイデアで、母のアイシャドウを借りて目の下を青く塗ってみた。 とたんに顔色が悪く見え、栄養失調の感じがうまく出た。
「これなら大金を持ってるなんて思われっこないわ。 変装成功!」
 鏡の中の田舎娘に笑ってみせて、リネットは着替えを詰めた鞄をしっかりと持ち、抜き足差し足で階段を下りた。

 長い廊下を通っていくと、台所のドアが開いているのが見えた。 エッグがテーブルに座り、鼻歌を口ずさみながらじゃがいもの皮をむいているのも。
 リネットは困って、手を握り合わせた。 このまま歩いていけば丸見えだ。 なんで妙な格好をしているのかと怪しまれるにきまっている。 引き返して裏口から出たとしても、台所の勝手口の横を通らなければ外に行けない。 こっちも見られる心配がある。
 仕方ない、また二階に上がりなおして、外階段から出ようか――音をさせないように向きを変えたとき、思いがけない声がした。
「こんにちは。 ちょっとお時間をいただけますか? この乱れた世の中には、今こそ燦然とかがやく神の御言葉が必要です。 そうお思いになりませんか?」
 エッグは溜め息をつき、よっこいしょと立ち上がって勝手口に行った。
「何の用? 押し売りなら……」
「ちがいます。 聖書を無料でお配りしているのですが、ええと、ご家族は何人ですか? おひとり一冊で」
「私は使用人よ。 独身だし」
「では他の使用人の方たちにも」
 天の助けというべきか。 エッグが黒服を着た伝道師らしい男と押し問答している間に、リネットは大きく開いた戸口の前を素早く通り過ぎて、玄関へと向かった。




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