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表紙


――ラミアンの怪物――

Chaptre 19

 日がすっかり落ちた時分には、城の中はだいぶなごやかになっていた。 もう熊はいない。 柱の影や廊下の曲がり角でびくびくしなくてもいいのだ。

 それまで、なりをひそめていた人たちにも、変化が現れた。 胃の具合が悪く、ずっと部屋で臥せっていて宴会に出ることもできなかった城主夫人、『金髪のシモーヌ』が五日ぶりに寝室を出て、義理の娘を見舞いに来た。
 侍女の控え室にいたコリンヌは、ナダールと小間使いを従えて現れたシモーヌを見て、驚いて繕い物を取り落とし、立ち上がってお辞儀をした。
「これは奥方様! もうお具合はよろしいのですか?」
 薄いスカーフを物憂げに口に当てて、シモーヌはうなずいた。 忘れな草のような青い眼が、ちらちらと瞬〔またた〕いた。
「ずっと姫の容態が心配で、ナダールに訊いていたのだけれど、熊がまだ見つからないから、部屋から出るのは危険だと止められて」
「それはそうでございます」
 コリンヌは真剣に相槌を打った。
「私は熊をこの目で見ました。 おとなの背丈ほどもある、それは大きな黒熊でした。 ブランシュ様が、ぐっすりおやすみになっている間にあんな物に襲われたと思うと、胸がしめつけられて……」
 声が途切れ、再び涙が溢れた。
 シモーヌは大きくうなずき、きゃしゃな手を伸ばして、コリンヌの肩に優しく触れた。
「おまえの責任ではないわ。 姫の命が助かって、不幸中の幸いでした。 痛み止めに効く良い薬草があるのよ。 塗り薬にして持ってきたから、お見舞いをさせてちょうだい」
「はい」
 湿った声で、コリンヌは答えた。

 ブランシュ姫は、襲われた寝室にそのまま横たわっていた。 窓は頑丈に修理され、屋根横の回廊に四六時中見張りが立つことになったとはいえ、恐怖の思い出があるその部屋から、もっと安全で静かな別の部屋へ移るように、周りは強く勧めた。
 しかし、医師のロバン・デュケが、がんとして聞き入れなかった。 まだ意識がもうろうとしている状態で、むやみに動かすと命にかかわると言い張り、破れた天蓋を二重にしてまで、同じベッドにこだわった。
 コリンヌに案内されて妃たちが入っていくと、寝台に身をかがめていたデュケ医師は、体を起こして恭しく会釈した。
「奥方様」
 白樺の若木のようにすらりとしたシモーヌは、優雅な足取りで寝台に近づき、大きな眼を不安げに寄せて、ブランシュを眺めた。
 痛々しい姿だった。 上半身のほとんどと顔の右半分は包帯で巻かれ、出ているのは、固くつむった左のまぶた、形のいい鼻と唇のみだった。
 胸が浅く上下するのを見て、シモーヌはたまらない様子で医師に向き直った。
「息が苦しそう。 なんとかできないの?」
「深く呼吸なさると、胸の傷が痛むのでしょう。 完全に傷がふさがるまでは、いたしかたないことです」
「薬を持ってきたわ」
 シモーヌはきっぱりと言い、ナダールから小さな箱を受け取って、蓋を開けた。
「これよ。 いい匂いがするでしょう? 痛みがやわらぐだけでなく、肌にもいいのよ」
 そう言いながら、シモーヌは濃緑色の練り薬を指先に取って、手の甲に塗り広げてみせた。
「ほら、艶が出てしっとりするの」
「ありがたく頂戴します」
 医師は丁重に答え、小箱を受け取った。





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