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表紙


――ラミアンの怪物――

Chaptre 1

 その夜は、新月だった。

 夜の帳〔とばり〕は一段と低く垂れ、黒ずんだ空には、青白い星が散らばっていた。

 北のネーデルラントでは羊毛の商売が栄え、南のミラノも東方貿易で華やいでいるそうだ。 しかし、ここ、モーゼル川流域のラミアンでは、相変わらず昔ながらの地味で貧しい暮らしが続いていた。
 村で唯一の旅籠、『青猫亭』で、そろそろ燭台を持って寝に行こうとしていた亭主が、近づいてくる蹄の音を聞き分けて、足を止めた。
 窓の鎧戸を開いて外を覗くと、大きなマントに身を包んだ男の二人連れが、それぞれの馬から下りるところだった。
 夜中の客は追いはぎに変わるかもしれない。 亭主のブリュノは用心しつつ、窓から首を出して低音で呼ばわった。
「そこの方々! 今宵はもうこの宿は閉めました。 すみませんが旅を続けるか、野宿してくだされ」
 すると男の一人が無言で近づいてきて、掌を広げた。 揺れ動く蝋燭の光が当たると、手の中にあるものはキラリと輝きを放った。
「金貨ですか。 旦那?」
 ブリュノは息を弾ませた。 男は深く下げた被り物を揺らしてうなずき、扉に向かって顎をしゃくってみせた。
 金貨を持った押し込み強盗はいないだろう、と、ブリュノは決め、閂を上げて扉口を開き、二人を通した。 そして、しっかりと金を受け取ってから、二階に案内した。

 先に立って階段を上るとき、ブリュノはふと背中に風を感じた。 扉も窓もきちんと閉めたのになぜ、と思い、後ろを振り向いた。
 別に変わったことはなかった。 ふたつの黒い影は前後に並んで、すぐ後についてきていた。
 不意に止まった言い訳に、ブリュノは胴間声を出した。
「足元に気をつけてくださいよ。 暗いですからな」
 前の男がうなずき、手を伸ばして亭主の背中を軽くこづいた。 さっさと行けという合図だった。

 ひとことも口をきかぬまま、二人の男は端の部屋に入り、ベッドを整えるブリュノを見守った。 敵意は感じられないが、声も顔もはっきりしない客は不気味で、次第にブリュノの動作が速くなった。
 無事に二人分の寝床を作ってほっとした。 ブリュノは引きつった愛想笑いを浮かべ、ワインの壷をテーブルに置いてから、そそくさと部屋を後にした。
「じゃ、ごゆっくり寝んでくだされ」


 寝室に入って着替えをしていると、眼をこすりながら女房のイヴェットが半身を起こした。
「お客?」
「そうだ、こんな夜中に。 でもな、金貨をくれたんだよ」
「金貨! 本物でしょうね」
 引ったくるように受け取ったイヴェットは、さっそく噛んでみて歯型がつくのを確かめた。
「こりゃあ儲かったわ。 ふだんの宿賃の十倍はある」
 それから鋭い目つきになった。
「ドアに鍵をかけたでしょうね。 めったな客に宿の中をうろうろされたら危なくて」
「もちろんだよ、おまえ」
 十月末の寒い晩だった。 急いで布団にもぐりこんだブリュノは、欠伸をしながら蝋燭を吹き消すやいなや、すぐにいびきをかき始めた。


 翌朝早く、四人の泊り客が次々と、階下に姿を現した。
 正確に言うと、五人のはずなのだが、昨夜遅く来た二人連れのうち、一人はまだ布団をかぶって寝ていた。
 もう一人が、相変わらずフードで顔を隠したまま、かすれ声でようやく口をきいた。
「連れは疲れている。 わたしと二人分の朝食を部屋まで運んでくれ」
「わかりました」
 いちおうこの客は、オイル語が話せるらしい。 フランスは地方によって言葉が大きく異なり、南と北では通じないほどかけ離れていた。 共通のフランシアン語が制定されるのは、まだ八十年ものちのことだっった。

 イヴェットが嫌がるので、亭主が自ら料理を上に運んだ。 下の食堂では、残りの客が賑やかに語り合いながら、黒パンとシチューの朝食を取っていた。
 ブリュノが運び終わって降りてくると、イヴェットは一人でてんてこまいしていた。
「ファニーが起きてこないのよ。 戸口まで行って大声で呼んだんだけど、返事もしないの」
「おかしいな。 確かに働き者じゃないが、いつも早起きなのに」
「私のこと女だと思ってバカにしてるのよ。 あんたが行ってガツンと怒鳴りつけてやって」
「わかったよ」
 女房に頭の上がらないブリュノは、すぐさま女中部屋へと向かった。
 狭い廊下の突き当たりに、ファニーの小さな寝室はあった。
「おい、起きろ! それともどこか具合が悪いのか?」
 三度ほどドンドン叩いてみたが、奥は静まり返っていた。
 押してもドアは開かない。 掛け金が内側からかかっているようだ。 仕方なく、ブリュノは足を高く上げ、薄い木の扉を蹴破った。

 中は暗かった。 窓の鎧戸が、ぴったりと閉まっているからだ。 明かり取りのために、留め金を外して右半分を開くと、荒れた室内が見えてきた。
 狭い寝台には、誰もいなかった。 毛布が斜めにずり落ち、枕が床に飛んでいる。 その近くには、棚から倒れたらしい水差しが横たわって、こぼれた水が床を黒く染めていた。




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