表紙 北風と陽だまり 21
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 目が合うとすぐ、理人は椅子をすべり降りてこっちに近づいてきた。 おやおや? と麻知が思っていると、彼は弘冶には見向きもせずに麻知の横に立ち、大きくはないがはっきりした声で尋ねた。
「カレシ?」
 主語も動詞もない。 ついでに挨拶もない。 言葉を節約する男だと今更ながらに思いつつ、麻知もエネルギーを節約して首を横に振った。
 すると理人は、もう一語付け加えて訊いてきた。
「カレシいる?」
「なにこの人?」
 無視された弘冶が、焦れて尋ねた。 説明が複雑なので、麻知は困りながらもまた首を振るだけですませた。
 とたんに、理人は腹に力を入れ、がやがやした室内なのに隅の隅まで通る声で申し込んだ。
「それなら、オレと付き合ってください!」


 料理店の中のざわめきが、ぴたっと止んだ。 麻知は、擬音でいうと、ガーンという状態におちいって、少しの間何も考えられなくなった。
 弘冶が、ゆっくりとフォークを皿に置いた。 そして、にやにやしながら頬杖をついて、麻知の間延びした顔を覗きこんだ。
「よう、どうする?」
 完全に面白がっている。 麻知はまばたきした。 それから、口に入っていたイクラをぐっと飲み込んだ。
 頭はパニックの十乗ぐらいになっていた。 客たちは一応そっぽを向いているが、体中を耳にして返事を待ちかまえていた。
 浅く息をひと吸いすると、麻知は答えた。
「はい……」
 語尾が揺れたからあわてて口をつぐんだが、店内がまた普段のざわめきに包まれたので、皆にも声は届いたらしかった。
 脇に下げた手を二度、握ったり開いたりした後、理人は思いがけない言葉を発した。
「ありがとう」
 それから上体を倒し、麻知にだけ聞こえる声で囁いた。
「バッティングセンターで待ってる。 用事がすんだら来て」
 そして、カウンターに金を置くと、風のような勢いで立ち去った。



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写真:ivory
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