表紙 北風と陽だまり 20
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 磯川は銀行の支店長で、間もなく定年になったら田園地帯に住んでハーブ園を開き、地域に根付いた生き方をするのが夢なのだそうだった。
 この辺りもちょっと行くと田んぼが広がっていて結構田舎だし、それなりの複雑な人間関係はある、と麻知は密かに思った。 だが、仲よく手を取り合って幸せそうな二人に水をかけるようなことは言いたくなくて、にっこりしただけだった。 本心は静子もいくらか不安らしく、まず先に磯川が土地を見つけ、実現できる計画を作るまでは、仕事を続けようと決心したようだった。

「明日は典江〔のりえ〕さんと渋谷に行って松尾さとみの歌謡ショーを見てくる予定なの。 お母さんに聞いてるでしょ?」
「ええ、楽しみにしてますって」
「そのときね、磯川さん連れてって紹介する。 あんたからも話しておいてね」
「はい」
 典江とは麻知の母の名前だった。 女将と母が二人ともいなくなると、明日は麻知がホテルと家の両方の留守番をしなければならない。 疲れる一日になりそうだった。


 翌日、さっそく変化が現れた。 尾刈町の老舗である『喜兆』という菓子屋の息子が電話をかけてきて、ホテルの中に新しく売店を出したいと相談を持ちかけてきた。
 春夢荘がアイネスホテルの傘下に入ったというのが、じわじわと噂になってきたらしい。 もうランクが上がってきたみたいで、麻知は心が浮き立った。

 『喜兆』の息子弘治〔ひろはる〕は、高校の同級生だった。 だから気軽に、昼どきビストロ・ワンという食べ物屋で待ち合わせようということになった。
 ビストロ・ワンは海鮮料理がうまい。 店主が関西につてがあって、珍しい清酒を取り揃えている。 だから地元の客だけでなく観光客にも人気があり、雑誌に掲載されるほどだった。
 その日もそこそこ混んでいたが、入れないほどではなかった。 吉木に後を頼んで抜けてきた麻知はイクラ丼と澄し汁、弘治はローストビーフとシーフードマリネを注文し、手始めに友達の近況を話し合いながら陽気に食べていた。
 間もなく、麻知は視線を感じた。 誰かが自分から目を離さずにいる。 いったい誰だろうと顔を上げて、カウンター席からまっすぐこっちを見ている池内理人に気付いた。



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写真:ivory
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