表紙 北風と陽だまり 1
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 麻知〔まち〕はその朝、早番だった。

 この温泉ホテル『春夢荘』では、週のうち二日は朝六時から午後三時までの勤務がある。 これだと夕方から遊べるので、恋人のいる仲居たちは週末にやりたがった。 恋人もボーイフレンドもなんにもいない麻知はその連中に頼まれて、こんなふうに月曜日から早起きしているのだ。

 仲居というのは、もともとは奥女中と下女の中間にある身分で、雇い主の奥さん達の荷物持ちとしてついて歩くのが仕事だったらしい。 今は他にしゃれた呼び方をしているホテルもあるが、麻知は「仲居さん」と呼びかけられるのが嫌ではなかった。
 仲居といっても、早番の日は着物を着ない。 仕入れの手伝いや庭掃除など、外回りの仕事を主にやる。 だから麻知もこの日は、動き易いジーンズとハイネックのストライプTシャツ姿で庭に出て、曲がりくねった小道を下りていき、温室のある花畑に行った。
 その花畑は、ホテルのオーナーが趣味と実益を兼ねて作っているフラワーガーデンだった。 ここに咲く四季折々の花を各室に飾り、ロビーにも置く。 活けるのは、師範の資格を持っている女将さんで、毎朝、採ってくる花のリストをメモにして回してくることになっていた。
 ごそごそとポケットを探って、麻知は今日切る花の種類を確かめた。
「ええと、ヒエンソウの紫と白、アイスランドポピー、ストックのピンクと白と青。 それにカスミソウの白と赤……」
 中規模のホテルなので、花数は相当多くなる。 まず小屋から手押し車を持ち出して、それから麻知はよく切れる花バサミを手に畑のうねを歩いた。
 この仕事は楽しかった。 ストックの甘い香りに包まれながら腕一杯に抱え、身軽に立ち上がったとたん、鋭い声が響いてきた。

「動くな!」

 はあ? 中腰になったまま、麻知は首を動かしてきょろきょろした。 自分のことだろうか。 まさか……
 近くの林から、真っ白に擦り切れ、横に何本も破れ目が入ったジーンズをはいた若者が姿を現した。 顔の前に立派なカメラを構えていて、口元しか見えない。 そのレンズは明らかに麻知をぴったり狙っていた。
「そう、そのまま。 はいチーズ」
 なんてエラソーな物の言い方だ! 反射的に麻知は、持っていたストックをサッと持ち上げて顔を隠してしまった。
 若者はぶつぶつ文句を言った。
「なんだよー。 せっかく撮ってやってるのに」
「バカかっ!」
 花の衝立の後ろから、麻知はかんかんに怒って怒鳴った。
「肖像権って知らないの? 許可なく人の写真撮っちゃいけないんだからねっ!」
「ポスターに使うかもしれないんだぞ」
 若者も負けずに声を張り上げた。
「うまく取れたらモデル代出してやる」
「誰が頼んだ!」
 無性にむかついて、麻知の声がオクターブ上がった。
「ふつう撮る前に訊くだろ! 写真撮っていいですか? とか。 それをなんだ! いきなり出てきて!」
「シャッターチャンスが大事なんだよ。 あの瞬間の顔がねらい目だったんだ」
「ねらうな!」
 もはや麻知は肩で息をしていた。
「仕事中に邪魔するな! あっち行け!」
 若者はカメラを顔に貼り付けたまま後退した。 後ずさりしながら言い残した。
「ガキくせーヤツ!」
 


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写真:ivory
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