表紙 北風と陽だまり 16
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 麻知がロビーに出たとき、あの若者の後ろ姿が見えた。 チェックアウトを済ませたところで、今しもバッグを肩にかけて立ち去ろうとしていた。
二日前なら心の中でVサインするところだが、逆に麻知は慌ててしまった。 このホテルが持ちこたえることになったのは、彼が池内に進言してくれたおかげなのだ。 なのに麻知は彼に礼を言うこともできないし、その前に、名前さえ知らないのだ!
 どこかにチャンスが転がっているかもしれない。 麻知は制服の着物姿のまま、こそっと横の出口から忍び出て、彼の先回りをして松の木に身を寄せ、携帯でパチッと横顔を撮った。
 彼は麻知には気付かず、さっさと大股で歩いていった。 どうやらタクシーを呼ばず、駅まで八分ほどの道のりを徒歩で行くつもりらしい。 成り行き上、麻知もだいぶ離れて後ろからついていった。

 敷地を出て間もなくのところにバス停留所がある。 彼がタッタッと早足で通り過ぎていったので、麻知も少し急ぎ足になって追いかけた。
 すると何と、気が変わったかどうかして、不意に彼はくるりと向き直り、バス停に戻ってきた! 一瞬のことだったので、麻知は逃げることも隠れることもできず、とっさに澄ました顔をして歩き続けるしかなかった。
 彼はのんびりとバスの時間割を覗きこんでいた。 少なくとも、そういうふうに見えた。 しかし、麻知が横を通り過ぎるとき、まったく姿勢を変えずに口だけ動かして言った。
「勝手に写真撮るなよな。 肖像権があるんだから」

 麻知は、見えない障害物に正面衝突したように、ぴたっと止まった。 この男は視野が二百度ぐらいあるらしい。 まっすぐ前を見て歩いていたくせに、どうして携帯で撮られていたのがわかったのだろう。
 立ち止まったまま、彼のほうを見ずに、麻知も口だけ動かした。
「まだ覚えてたのか。 執念深い」
「巳年だからな」
 巳年生まれ? 麻知の顎ががくっと落ちた。
「うっそー、十七歳……のわけないから、二十九歳?!」
「八月でな」
 見まいと思っても、無意識に視線が動いてしまった。 食い入るほど観察しても、彼は二十歳より一日も年上には見えなかった。
「年下だと思ってた」
「ああそうかい」
 彼は唸った。
「自分だってスッピンだと中坊に見えるぞ」
「スッピンの顔をいつ見た!」
 いかん、どうしてもけんか腰になる。 麻知は大いに困った。



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写真:ivory
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