表紙 北風と陽だまり 14
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 ホテルに出勤する前に、電話がかかってきた。 女将の静子からだった。
「あ、まっちゃん? 今日は大事なお客様があって、まっちゃんにも会ってほしいから、ちゃんとした格好してきてくれる?」
 来た! こんなに早く、と胸に緊張が走った。 心の準備は大丈夫だろうか。
「はい、今から着替えてすぐ行きます」
「お願いね」
 女将さんにも支度があるのだろう。 あわただしく切れた。

 本館の玄関に池内と秘書が現れたのは、九時だった。 とっておきのクリーム色のスーツを着て出迎えた麻知を見て、池内は瞬間、あっと言いそうな顔をしたが、すぐ女将に視線を移して挨拶した。
「先週は突然失礼しました」
 静子は華やいだ様子で、腰をかがめて一礼した。
「こちらこそ。 これは姪の上野麻知です。 同席させてよろしいでしょうか?」
 池内の眼が、しっかりと麻知を捉えた。 そうか、君だったのか、と半ば驚き、半ば面白がっている目つきだった。
「もちろん構いませんよ。 それでは行きましょうか」

 桃とチューリップを水盤に飾った応接間で、池内はすぐ本題に入った。
「いろいろな角度から調べさせていただきまして、一応の結論に達しました。 このホテルは優良宿泊施設として推薦できる立派な事業です。 それで、出資という形で後押しさせていただこうかと」
 予想していた麻知は反応を示さなかったが、静子の顔には明らかに動揺が走った。
「ということは、今のままで?」
「ええ。 女将さんにご都合が悪ければ、大株主という立場になって、後をお譲りになってもよろしいですよ。 経営のノウハウでも当社がお役に立てると思いますし」
 居心地の悪い沈黙が広がった。 静子はもじもじと体を動かし、重ねて尋ねた。
「それはつまり、アイネスホテルから出向してくるってことですか?」
 池内は淡々と答えた。
「いえ。 そちらの上野麻知さんを守り立てていこうということです」

 麻知は、初めて聞くふりをすることができなかった。 ただ膝の上で両手を握り締めてじっとしていると、横顔に静子の視線が釘付けになった。
 低い声が言った。
「驚かないのね」
 どうしよう、前もって仕組んだ乗っ取り劇だと勘ぐられてる――麻知は困り果てた。



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写真:ivory
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