表紙 北風と陽だまり 11
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 考え中か…… 女将の私室を出てきた麻知の心は暗かった。 決意をしたら必ず話すと静子は言った。 それはそうだろう。 麻知の家が、正確に言うと麻知の母が旅館の土地建物を半分所有しているのだから。
 母は反対しない。 それもわかっていた。 ごたごたを何より嫌う人柄だからだ。 まとまった金は入る。 たぶん億と。 だが、『春夢荘』は無くなってしまうのだ。 小さい頃から親しんだ綺麗な庭、いちょうや紅葉の古木、鯉が集う池、すべてがブルドーザーに潰されていく。
「まだやれるのに」
 無意識に拳が握りしめられた。
「みんな同じようなホテルばかりじゃ、味気ないじゃない!」


 仕事が終わると、もう真っ暗だった。 以前はのどかだったこの辺りも、最近ストーカーや引ったくりが出没しはじめ、住み込みでない女性従業員は吉木という古参社員の車で送ってもらうことになっていた。
 その晩は、河原久実〔かわはら くみ〕という十歳以上年上の仲居さんと相乗りだった。 それほど親しい仲ではないので、挨拶程度で自然に話が途切れ、なんとなく夜の温泉街の景色を眺めていた。
 橋にさしかかって半分ほど通りすぎたとき、男の二人連れが目についた。 一人は見覚えのある中年紳士で……
「池内さんだ」
 思わず呟いた声を、川原が耳に入れた。
「え?」
「いや……知ってる人かなと思って」
「そう」
 ウィンドウに張り付くようにして、麻知は目を凝らした。 池内の横を歩いているのが、信じられない男だったのだ。

 車はすぐに男性二人を追い越し、橋を渡りきったところで左にカーブした。 十メートルほど過ぎてから、不意に麻知は声を出した。
「あ、ちょっと買い物! 吉木さん、ここで降ります」
 吉木は驚いて首を向けた。
「買い物?」
「そう。 お母さんに頼まれちゃって。 忘れてました」
「そうかい。 ここからは明るいから大丈夫だね。 じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 車内の二人に明るく挨拶して、麻知は素早く車から出た。



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写真:ivory
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