表紙 北風と陽だまり 9
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 翌日は八時出勤だった。 定年を記念して旅行に来たという初老カップルを案内した後、廊下を急ぎ足で歩いていると、曲がり角から不意に佐藤紀代美が現れて、麻知の袖を引いて人気のない隅に引き込んだ。
「ねえ、ここ買収されるって噂があるんだけど、ほんと?」

 頭にキーンと突き抜けるような驚きが走った。 紀代美はきょろきょろしながら早口になった。
「ここさ、土地が広いし、高台で駅からの便もいいし、丸ごと売れば相当な金額になるんじゃないの?」
「そんな話、聞いてません」
 衝撃がさめると、麻知はむきになった。 土地建物を売るなどという重大な話を、親族の自分たちに何も言わず女将だけで決めるはずがない。
「そう? でも一応、女将さんに確かめてみたほうがいいんじゃない? 親戚ったってさ、あの人は嫁なんだから結局赤の他人だしさ」
「ここの半分はうちのものなんです」
 麻知ははっきりと言った。
「登記もしてあります」
「うん、そうでしょうけど」
 紀代美の顔がずるそうに歪んだ。
「麻知ちゃんのお母さん、おっとりしてるから、登記書を巻き上げられたりしないかな」
 麻知の視線が一瞬泳いだ。 確かに母は…… だがすぐ気を取り直して、胸を張った。
「大丈夫です。 私が見てますから」
 頼りになるかな、というあやふやな表情で、紀代美は首をかしげてみせた。
「後ろ盾になってくれる人がいるといいんだけどね。 あんたはしっかりしてるわよ。 でも、まだ若いから」


 解放されて、一段と足を速めて歩きながら、麻知の胸は騒いでいた。 買収話なんて本当に出てるんだろうか。 紀代美はいわゆる『地獄耳』で、いろんなゴシップを仕入れてくる。 中には当てにならない話もあった。
「直接訊こう。 噂なんて無責任なものだから」
 きっと根も葉もない話だ、と自分に言い聞かせて、麻知は事務室に足を向けた。




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写真:ivory
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