表紙 北風と陽だまり 8
表紙目次前頁次頁文頭




「ただいまー」
 玄関でショートブーツを脱ぎながら声を出すと、茶の間でキャッという叫びがした。
「どうした!」
「ミルクココアこぼしちゃった。 麻知のクッションにしみこんでく」
「おーい」
 参ったな、と思いつつ、麻知は急いで中に入ってキッチンから台ふきんを持ち出し、手際よく薄茶色の液体を拭き取った。
 母はそばでぼんやり立っていたが、すぐ雑誌に気を取られて、ソファーに座り込んで読み始めた。
「ね、母上、あなたがこぼしたんでしょ? どうして私が片付けんだ」
「うーん、うまいから」
「違うでしょ? 母上がやんないから」
「ごめんねえ」
 上の空であやまった後、母は眼を輝かせて麻知にページを見せた。
「ね、これ、すごくおいしそうじゃない? 麻知、作れる?」
「どうかな」
 鼻に皺を寄せて、麻知は『サーモンのゼリー寄せ』と書かれたピカピカの料理を眺めた。
 母は嬉しそうに膝を寄せてきた。
「麻知ならできるよ。 食べてみたいな。 お願い」
 お願いって……のんびりしていて、常に半分天国で遊んでいる母を、麻知は立場が逆になったような眼で見ていた。 つまり、麻知が保護者で、母はいたいけな子供、というふうに。
 母は決してバカではない。 ただ、あまりにも可愛がられて育ったため、普通の人が普通にできることができない、というだけなのだ。
 麻知が十五のとき、父が急死した。 通いのハウスキーパーさんを雇って優雅に暮らしていた生活が一変した。 兄はさっさと金持ち娘のところへ婿入りし、実家にはほとんど戻ってこなくなった。 弟は接客業なんか嫌いだと宣言して、全寮制の工業高校へ行ってしまった。 今では麻知が母の支えになっている。 たぶんこれからもずっと。
 それでも自分は恵まれたほうだ、と麻知にはわかっていた。 仕事がある。 将来の希望もしっかりとある。 たぶん……。
 ふと思いついて、麻知はカード入れから昼間貰った名刺を取り出した。 これって本物だろうか。 あんな大きなホテルの重役が、平日の昼下がりにのんびりとバッティングセンターに現れたりするものだろうか。
「新手の詐欺かな。 でも私なんか引っかけても」
 フーゾクのスカウトとか? いやそれならもっと強引なはずだ。 麻知は首をひねった。

 夜、麻知はパソコンをつけて、いつも通り今日一日のまとめを書き入れた。 メモを見ながら客の動向を表にし、明日からの予定を確認し、お得意様に出すご挨拶葉書の文面を下書きした。
 麻知に頼っているのは、母だけではなかった。 『春夢荘』の女将、上野静子も、麻知にホテルの未来を託していた。




表紙目次前頁次頁
写真:ivory
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送