表紙目次文頭前頁次頁
表紙

金の声・鉛の道
―99―


「誰? ビットナー?」
 すぐに鏡を見て、ビロードの帽子の角度を決めた。 衣擦れの音をさせながら玄関に急ぐリーゼの耳に、思いがけない声が聞こえた。
「不意に来てごめんなさい。 ハイデマリーよ。 覚えている? 昔刺繍工場で一緒だったハイデマリー・デューラー」


 リーゼは驚き、同時に嬉しくなった。 昔の女工仲間は、リーゼが有名になってからは遠慮があるのかちっとも来てくれない。 ごくたまに道で会っても、挨拶程度で恥ずかしそうにそそくさと行ってしまうのが常だった。
「まあ、すぐ開けるわ!」
 鍵を開いてできるだけ早くドアを開くと、分厚い半コートを着たハイデマリーが、不安げに両手を揉みしだきながら立っていた。
 目が合ったとたん、ハイデマリーはすがりつくように言った。
「あ、お出掛けの格好なのね? 忙しい?」
「仮縫いの約束があるけど、その前に買い物してから行くつもりだったから、まだ大丈夫よ。 中に入って。 さあ」
「そうしたいんだけど、できないの」
 ハイデマリーはそわそわと振り返って、階段のほうを見た。
「頼まれたのよ。 最後のお願いだから、あなたを連れて来てほしいって」


 最後の願い?
 リーゼの心臓が不規則に脈を打った。 常にヴァルを心配しているため、最後とか絶望とか言われると、それだけで寿命の縮む思いがするのだった。
「え? いったい何のこと? 誰の願い?」
 ハイデマリーは涙声になった。 いつも落ち着いている彼女にしては、珍しいことだった。
「レナーテよ。 しょっちゅう恋人を替えていた子。 覚えてるでしょう?
 あなたが辞めてから少しして、レナーテも刺繍工場に来なくなったの。 新しい彼は金持ちらしくて、素敵なアパートを借りることになってね」
 要領のいいレナーテだから、うまく運を掴んだのだろう。 リーゼは驚かなかった。
「そのレナーテが、どうして私に?」
「わからない。 でも、もう彼女、長くないのよ」
「病気?」
 ハイデマリーの体が、ぶるっと震えた。
「違うの。 強盗に刺されたの」







表紙 目次前頁次頁

背景:ぐらん・ふくや・かふぇ/ボタン:May Fair Garden
Copyright © jiris.All Rights Reserved

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送