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表紙

金の声・鉛の道
―1―


「ソーセージとパン、ソーセージとパン」
 小声で自分に言い聞かせながら、リーゼはオルトヴィーン通りを東へ曲がった。
 今日は土曜日で、給料の出る日だ。 さっきまでエルミーラと腕を組んで帰ってきたのだが、中央通りに出たところでヴィリーが待ち構えていて、さっさと娘を連れ去ってしまった。 常に酔っていて、最近ではまっすぐ歩くことさえできなくなった父親を、エルミーラは嫌っていたが、勤め先を知られているから逃げるわけにいかなかった。
 かわいそうに、と、リーゼは思う。 踊り子の隠し子として生まれ、初めから父親を知らない自分のほうが、周りから見たらかわいそうかもしれない。 でも、酒を飲んでは殴る父親より、いっそいないほうがよかった。

 帰り道に買うのはソーセージとパン。 夕方の市場は混んでいた。 週末だから、ほんのちょっと贅沢をして味のいい物を選び、ビールやワインの瓶を下げて帰るのだ。 リーゼはザッハーソーセージを一巻きと、塩気の効いた平らなパンを買うと、バスケットに入れて歩き出した。

 もうじき夕食どきだ。 通り過ぎる家々からは、いろんないい匂いがただよってきて、空腹なリーゼの鼻を刺激した。
――これは、たぶん牛肉と野菜の煮込みね。 こっちは……甘い匂い! きっとアプフェルシュトルーデル(=ウィーン風アップルパイ)よ――
 これから戻る下宿屋の台所でも、こういう香りがたちこめていればいいな、と期待して、リーゼは足を早めた。
 そこへ、匂いではないものが空気を貫いて届いた。
 リーゼの足が、不意に遅くなった。

 初めはかすかな雑音にすぎなかった。 だが、ゆっくりと近づくにつれて、はっきりとした音楽になった。 物悲しいバンドネオンとバイオリンの響きに、間もなくビブラートのきいた歌声が加わった。

「若かった あの頃
 ふたりは河岸を歩いた
 水は甘くささやき
 風は愛を唄った

 どこへ消えた あの水は あの風は
 そして ふたりの初めての恋は」

 それは、ホイリゲ(=酒場)から流れてくる音楽だった。 今日の曇り空のように、湿った切ない雰囲気だ。 木陰に並んだテーブルに坐った客が、コップを揺らしながら聞き入っている姿が想像できた。
 音を聞き漏らさないように、りーゼはそっと忍び足で歩いた。 狭い道を一つへだてた向こうにあるホイリゲからは、二番の繰り返しが聞こえてきた。
「……どこへ消えた あの水は あの風は
 そして ふたりの初めての恋は」
 客が覚えて、一緒に歌っている。 哀愁のある美しいメロディーだった。
 リーゼは歌わなかった。 少なくとも、道を外れてリンクに出るまでは。
 リンクとは、以前にウィーンの町を囲む城壁があったところで、去年出た取り壊し令によって次々と空き地や溝になり、掘り返されて、赤っぽい土が剥き出しになっていた。
 ここまで来ると、人通りはほとんどない。 少し大きな音を出しても、とがめられる心配はまずないのだ。
 ぬかるみに足を踏み入れないよう注意しながら、リーゼはでこぼこした地面をたどって歩き、気に入った場所に立ち止まった。
 それから、胸一杯に息を吸い込んで、歌い始めた。




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