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表紙

金の声・鉛の道
―100―


 リーゼは息を呑んだ。 ウィーンの町はあまり治安のいい所ではないが、それでも若い女性が強盗に襲われ、傷を負わされるのは珍しかった。
 すぐに、リーゼは心を決めた。 レナーテと特に仲良しだったわけではない。 でも、デビューした直後に歌を聞きに来て、大声で応援してくれた覚えがある。 会いたいと言うなら行くべきだと思った。


 下には辻馬車が待っていた。 レナーテは知り合いの医者のところに担ぎこまれたという。 ハイデマリーは涙声で、御者にリヒャルト通りを指示した。
 それでもまだ納得がいかなくて、リーゼは車中でもう一度ハイデマリーに訊いた。
「私に会いたいと言ったのは本当? 他の名前と聞き間違えたんじゃない?」
「あなたよ、確かに。 工場の仲間じゃ、私だけがレナーテと付き合いが続いてたの。 あの子の住んでるアパートの門番とも顔見知りでね。 彼が私に伝言したのよ。 リーゼ・シュライバーさんを、あの有名なソプラノ歌手の人を呼んできてくれって」


 ラウエルバッハ医師の立派な玄関先に下りると、ボンネット風の帽子を頭に載せたナースが出てきて、急ぎ足でリーゼを奥の病室に案内した。
 そこは、医者と懇意にしている特別な病人だけが使える部屋だった。 落ち着いた赤茶色の壁紙にガス燈の黄色い光が反射して、家具や寝台の柱が僅かに揺らめいて見えた。
 薄茶色の巻き毛を枕に散らして横たわるレナーテは、蝋のような顔色をしていた。 もう命の炎が燃えつきかけているのは、一目でわかった。
 だが、細く開いた瞳がリーゼを見分けたとたん、わずかに生気が戻ってきた。 右手が枕の下をまさぐり、皺になった羊皮紙を懸命に取り出した。
 細い声が、ベッドの横に歩み寄るリーゼの耳に届いた。
「来てくれたのね。 ああ、リーゼ、私馬鹿だったわ。 本当に馬鹿だった。 でも、あなたを傷つけるつもりはなかったのよ。 本当よ」
 次いで、手が大きく揺れながら紙切れを差し出した。 何だかわからずに受け取り、折り目を開いたとたん、リーゼは石のようになった。








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