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表紙

金の声・鉛の道
―101―


 その紙は、結婚証明書だった。 レナーテ・ロベルタ・グルマンと、そしてヴァルター・フリードリッヒ・フォン・ハルテンベルクが、一八五九年六月二十八日に正式な婚姻関係を結んだことが書かれ、二人のサインが並んでいた。


 これは、何?
 リーゼには、まったく理解できなかった。 なぜレナーテがヴァルと、それもリーゼと別れた直後に、結婚……?
 紙の字がぼやけた。 部屋のすべてがぐんにゃりと揺れて見えた。 驚きすぎて、涙は一滴も出ず、目はひび割れそうなほど乾いていたのだが。
 ベッドの上から、かすかな声が這い昇ってきた。
「ちがうの。 それは罠なのよ。 イェリネクって男が私を郊外に連れていって、あなたのふりをしろって言ったの」
「真似をしろと?」
 リーゼではなく、横から紙を覗きこんだハイデマリーがぎょっとして尋ねた。 怪我人は、苦しげに首を振った。
「そう。 ベッドには、高熱を出してうわ言を言っている若者がいたわ。 見てすぐわかった。 いつもリーゼを迎えに来ていた男の子だった。
 私はリーゼの話し癖をよく知っているから、真似したわ。 イェリネクは私に言ったの。 リーゼは出世したくて彼を踏み台にしたって。 振ったのはリーゼのほうだって」
「嘘よ!」
 からからになったリーゼの喉から、異様な声がほとばしった。 すると、レナーテの唇が小さくほころびた。
「私は別に、そうして悪いなんて思わなかった。 庶民にチャンスはめったに来ないんだもの。 利用してかまわないと思ったわ。
 でも、半分は信じなかったのよ。 あんたを知ってるから。 親切な男を振ったりする人じゃない。 嘘ついてるのはイェリネクじゃないかってね」
 声がいっそう弱くなった。
「ともかく、あんたは成功した。 舞台で輝いていたわ。 だから今度は私がおこぼれを貰う番だった」
「それが、この紙切れなの?」
 あきれて、ハイデマリーが顔をくしゃくしゃにした。
「こういうことをやる女がいるのは知ってるわ。 金持ちを誘惑して、ぐでんぐでんに酔わせて、もうろうとしている間にサインさせちゃうのよね。 そして、翌朝、男に見せる」
「そうよ。 私のときは酒じゃなく、熱でぼうっとしてたわけ」
「犯罪よ! あんた何やってるの!」
「イェリネクがそうしろって言ったのよ」
 最後の力をふりしぼって、レナーテは抵抗した。
「これを持って、彼の前から姿を消せって。 ハルテンベルクさんがリーゼのところへ行かないように、保険をかけたのよ。
 おかげで、私は楽ができたわ。 一流の部屋を借りて、パリやモンテカルロで遊び放題。 他の男と遊ぶのも自由だし、天国みたいだった」
 首が重くなり、横に垂れた。 ふうっと長い息をついて、レナーテは目を閉じた。








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