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表紙

金の声・鉛の道
―89―


 馬車は少し遠回りしてアイメルトを拾い、公会堂のリハーサル場へと走った。
 車の中で打ち合わせを手早く終わらせた後、リーゼは姿勢を正して、ちらっとアイメルトの様子を見た。 何をさておいても、彼には事実を話さなければならない。 マネージャーと歌姫は、いわば一心同体なのだから。
「あの」
 そこでもう息が切れた。 茶色の目を上げて、アイメルトが後を引き取った。
「彼が来たんだね?」
 リーゼの肩が落ちた。
「私、そんなにわかりやすい?」
「いろいろ考えあわせてみればね」
 口髭が動いて、小さな笑顔を作った。
「一応聞いておきましょう。 お相手は?」
 一呼吸置いてから、リーゼは棒読みで答えた。
「ヴァルター・フォン・ハルテンベルク大尉。 エルメンライヒ号に乗り組んでいるの」


 フロックコートのポケットにしまおうとしていた革の手帖が、ぽろっとすべり落ちた。 アイメルトは口を開けて、正面に坐った愛らしい歌手をまじまじと見つめた。
「本当かい! 少なくともウィーンの令嬢の半分を敵に回すよ」
「え? なぜ?」
 きょとんとしたリーゼに、アイメルトは苦笑するしかなかった。
「新聞の一面ぐらい読みなさい。 リッサの海戦でハルテンベルク大尉がどんなに勇敢に戦ったか、でかでかと記事になっていたんだから。
 海軍さんたちは、こういうふうに、船をくさび型に並べて、敵艦に突っ込んでいったんだ。 艦首は一番頑丈に作ってあるが、それでも凄い衝撃だ。 落ちて負傷した上官に代わって、砲弾の嵐の中で前甲板の指揮を取り、見事に戦いぬいたそうだ。 ハルテンブルク大尉は英雄で、人気の的なんだよ。 若いし、おまけに美男で独身だし」
 リーゼは凍りついた。 砲弾の嵐って…… 唇まで血の気が失せた。
「そんなこと、ヴァルは一言も言わなかった」
「知ってると思ったんだろう」
――ちがう。 私が知らないと悟って、ほっとしたんだ――
 リーゼにはわかった。 愛する者の本能で感じ取った。 ヴァルは自暴自棄になっていたのだ。 死んでもかまわない、いや、もしかすると死にたいと願っていたのかもしれなかった。






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