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表紙

金の声・鉛の道
―87―


 空をぎっしりと埋めた黒雲のせいで、夜明けの訪れは遅かった。
 それでもいつかは朝になる。 灰色の光が徐々に窓辺を這い上がり、羽根布団の下で互いの腕を枕に深い眠りに落ちた恋人たちを淡く照らした。
 先に重い瞼をこじ開けたのは、ヴァルだった。
 目をこすりながらサイドテーブルの時計を見て、はっとして身を起こした。
「もう八時過ぎ……?」
 低い叫びに、リーゼも驚いて布団から顔を出した。
「そんな時間? 乗船に間に合うかしら」
「馬を飛ばせば何とかなる。 心配しないで」
 素早くベッドから抜け出ると、日頃の修練で二分とかからずに、ヴァルは服装を整えて帽子まで被り終えた。
 続いて彼は、痛いほど強く、リーゼを腕一杯に抱きしめた。
「手紙を書くよ。 ここに届けさせていいかい?」
「ええ、もちろん」
「イェーガーの名で出す。 君がもし返事をくれるなら……」
「書くわ、絶対に!」
「何がわかりやすいかな……そうだ、シュテルンとサインしてくれ」
 シュテルン――星。 彼の大切な星になりたいと思いながら、リーゼは力をこめて大きく頷いた。


 見送ることはできなかった。 リーゼの顔はウィーンっ子なら誰でも知っているからだ。
 それでも、ヴァルが別れのキスを残して去った後、窓のカーテンに隠れて、リーゼは下の道を目が痛むほど見つめ続けた。
 やがてヴァルが、マントで全身を覆って現れた。 そして、一瞬窓を見上げた後、早足で角を曲がり、姿を消した。


 雨は小降りになったが、まだ降り続いていた。 どっしりしたカーテンの奥から見送った後、リーゼはヴァルの無事を祈ろうとして顔をうつむけた。
 視線が下に落ちる寸前、道で人影が動いた。 奇妙な移動の仕方で、街灯を渡り歩くようにしながらさりげなく体を隠し、素早くヴァルと同じ道をたどっていった。






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