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表紙

金の声・鉛の道
―84―


 中は、小じんまりした居心地のいい玄関になっていた。 右横にカーテンで仕切ったクロークがあったが、ヴァルはそこではマントを脱がずに、着たままリーゼと階段を上がった。
  部屋の扉を開け、ガス燈を灯したところで、ヴァルは驚いた。
「これは…… 僕がいたときとほとんど変わってないね」
「模様替えしなかったの。 住みやすいからこのままで」
 不思議そうに、ヴァルは控えの間に視線を移した。
「小間使いは? 休み?」
「いないわ。 雇ってないの」
「じゃ、掃除・洗濯の手配から服の整理まで、全部一人で?」
「あなただってやってたでしょう?」
 くすくす笑うリーゼに、ヴァルはマントを肩から外して長椅子に投げると、すぐ近づいた。
「じゃ、飲み物は僕が出すよ。 君は坐っていて」
「ありがとう、二人でやりましょう。 昔みたいに」
 昔みたいに…… 自分の言葉を自分の耳で聞いて、不意に胸が絞めつけられた。 明日になれば、ヴァルは軍艦に乗る。 一度海に出たら、すぐには戻ってこられない。 万一ということだってある……。
 ぶるっと一回頭を強く振って、リーゼは不吉な考えを跳ね飛ばした。 そして、コーデュロイのズボンに藍色の上着、リボンタイという庶民的な服装のヴァルを、物珍しげに上から下まで眺めた。
「そういう格好は初めて見たわ」
「軍服とこれしか着るものを持ってきてない。 これはヴェネチアに潜入するときに使った服なんだ」
 敵地だ。 もともとヴェネチアはハプスブルクの土地だったが、去年のウィーン条約でイタリアに割譲されていた。
 リーゼは不安で身が震えた。 軍人が身分証明なく、私服で他国を歩いていれば、スパイと思われて逮捕されることもある。 若いヴァルは危険な任務を命じられているのだ。
「潜入なんて……怖いわ」
「大して危険はないよ。 一人じゃないし」
 ヴァルは安心させようとして、明るい笑顔になった。
 二人は小さなキッチンに入り、並んでココアを作りはじめた。
「カップまで同じ棚に入れてあるんだね」
「わかりやすいでしょう? あ、でも粉の缶はこっちにしたわ。 元の棚は私には高すぎて届かないから」
 じきに湯が沸き、ふくいくとしたココアの香りが狭い空間を満たした。






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