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表紙

金の声・鉛の道
―82―


 終幕が降りると、いつものように歓呼の嵐だった。
 何度もアンコールに呼び出されてから、まだ鳴り止まぬ拍手を後にして、リーゼは楽屋に急いだ。 できるだけ早く着替えて帰宅したいと願うこんなときに限って、普段以上の崇拝者が通路を埋めていた。
 焦りを顔に出さないようにしながら、リーゼは次々と差し出されるサイン帳に名前を書いた。 あちこちから飛び交う褒め言葉に笑顔で応え、質問には丁寧に答えた。
「最後のアリアには鳥肌が立ちました。 凄いです!」
「来年の一月にはバルセロナでドニゼッティを歌われるそうですが?」
「いいえ、バルセロナではなく、ロンドンです」
 頭を巡らして、リーゼは訂正した。 ここ数年、スケジュールの三分の一は外国公演で埋まっている。 アメリカやカナダからも申し込みが来ているので、来年の後半には日程を調整して遠い船旅に出ることになりそうだった。


 ようやく人ごみから解放されたのは、終演から一時間以上経ってからだった。 マネージャーのアイメルトを先に帰らせたから長引いたのだ。 でも仕方がなかった。 アイメルトといつものように同じ馬車で戻れば、嫌でもヴァルと顔を合わせてしまう。 今夜は二人で、二人きりで会いたかった。


 夜更けの道を、馬車はなめらかに走った。 空を天幕のように雲が覆い、星が一つ二つ見えるだけの曇天だった。
 最後の角を曲がると、とたんにダンス音楽が賑やかに耳を打った。 子供の頃から聞き慣れた『マリツキー』の喧騒だ。 演奏旅行から帰ってきて、この陽気な音楽が聞こえると、いかにも家に戻ったという安心感が沸いてくるのが常だった。


 泊り客用ドアの近くで、馬車は止まった。 御者のビットナーがいつもの通り手を貸して、リーゼを下ろしてくれた。
「明日は何時にお迎えに来ますか?」
「明日は月曜日で、午後からだから、一時にお願い」
「かしこまりました、おやすみなさい」
「ゆっくり休んでね」
 帽子に軽く手をかけて別れの挨拶を交わした後、ビットナーは御者席に戻り、裏手にある馬車置き場に向かって走らせていった。


 すぐ、リーゼは周囲を見回した。
――ヴァル、どこ?――
 一軒離れた脇の細道から、黒っぽい影が幻のように現れた。








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