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―80―
手が小刻みに震えて落としそうになったので、リーゼは扇子の紐を手首に通した。
ヴァルは、ゆっくりと帽子を脱いで、手に持った。 ごく低い声が、寒風の中をリーゼの耳に辛うじて届いた。
「しばらくぶりだね、リーゼ。 ウィーン一の、いや、ヨーロッパ一の、凄い歌姫になったね」
「ヴァル」
後が続かなくて、リーゼは二度、唾を飲み下した。
「ヴァルター・フォン・ハルテンブルク大尉」
きらめく栗色の眼を、さっと影が走った。
「悪かった、本名を名乗れなくて。 母の苗字で部屋を借りたから、ついそのままにしてしまったんだ」
少し離れたところに立ち止まったまま、リーゼは静かな口調で尋ねた。
「別荘の壁にかかっていた肖像画は、ご親戚?」
「いや、父と母と、それに僕だ」
あの真ん中に挟まれた金色の髪の赤ん坊が……リーゼの瞳が思い出を映してまたたいた。 真面目くさった顔をした小さな赤ちゃん。 あんなチビさんが成長して、ふんわりした金髪は濃い茶色になり、背丈は一八○センチを遥かに越えたのだ。
「名前が違ったから、それで会いに来られなかったの?」
それがリーゼの最も訊きたいことだった。
ヴァルの眼が、一段と暗さを増した。
「それもある。 だが一番の理由は、僕が君にふさわしくないことだ」
リーゼは衝撃を受けた。
――あなたが私に? その逆じゃなくて?――
くるっと体勢を変えて横を向くと、ヴァルは喉に声を詰まらせた。
「うちは代々海軍の家系なんだ。 祖父はナポレオンとの戦いで戦死し、父は砲撃で片脚を失った。 戦艦は海に浮かぶ標的のようなもので、いつ何が起きても不思議じゃない」
「それだけ?」
リーゼは無意識に一歩前に出た。
「それなら軍人は、陸軍も海軍も恋をしてはいけないことになるわ」
「他の男は知らない。 だが僕は……」
リーゼは更に二歩進み、ヴァルのすぐ前に来た。 近づいてもいいはずだと思った。 なぜなら、ヴァルの表情が、ザビーネ・フォン・アイブリンガーを相手にしている時とはまったく違っていたからだ。
ヴァルの頬は赤らんでいた。 鋭く美しい眼は隠しようもなく生気を帯び、リーゼの顔を、姿を、懐かしげにそっと眺め回していた。
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